2007年01月
2007年01月21日
再び、今ここにあること。
一人、堺市の緑化センターの縁台の椅子に座る。センターのコヒーショップのいれたてのコーヒーをそこに運んで飲む。贅沢な時間が流れる。一人、静かな空間を占領している。誰も干渉しない、一人という時間、草木は只あるがままに存在している。面前にあるトチノキは静かに時の経つのを待っている。春の陽光がさせば、自然と新緑を生じさせ、花をつけ実を成り立たせ、そして再び春を待つことになる。一年の周期を全うする。そのリズム、人も同じようなリズムをもっている。時間の単位はそれぞれ異なるが、すべては自然界から生まれ自然界に帰ることになる。それ以上でもそれ以下でもない。自然界に存在し、何かをなすのは決してそれ単独のためではないような気がする。何かの目的が潜伏していて、それによって動かされているだけではないと思うが、もしかしたら、動かされているのかもしれない。しかしその事を知る術が我々にはないのである。その仮説を前提にして、それが真実の世界であると信じて、自然界や人の世界を見れば、ひとつの宗教やひとつの哲学が生まれる。そして、それに殉教するのもまたひとつの選択肢でもある。何かあるように思える。確かに、自分の過去や自然界の動きを見れば、確率的に動いていながら、そこに我々が考える秩序があると感受する。決して目茶苦茶ではない。もしそうなら、130億万年も宇宙は存在してないし、現に今ここに私は存在していない。逆説的な言い方だが、今ここにあることは、そうなるようになっていたとしか考えられない。秩序がなく、無茶苦茶なものであれば、確率的に今ここにあることは、不可能だからである。
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2007年01月17日
ひとつの思い
見えない世界が見える。
だから、見える世界の裏に見えない世界がある。
それを、知っている。
みんな見える幻想におびえている。
聞いてごらん、命の重なりが伝わってくる。
ひとりじゃないよ。必死で生きようとする声が聞こえてくる。
今は、それが幻想にかき消されている。
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2007年01月16日
あなたは5年前とくらべてどうですか。
ふと、考えました。人には、二つの因子があります。電気ではブラスとマイナスがあるように、重力(引力)と斥力(せきりょく)が人にもあるように思えます。人の自我を業といえば、その業に対する力が外向きと内向きの二つの要素になることです。それが、自然界と己との界面の張力で現されます。さらに、それを見ていけば、自然界から引かれる力、己の中心から見れば、広がりを意味するため、斥力になり、自然界から孤立するもの、己からみれば自らの内部に深く沈み込むことを意味するため、重力的なものになります。たぶん、人の心の強い思い、それはエネルギーにもなります。エネルギーは質量と等価です。宇宙にある物質と暗黒物質との対比にもつながります。
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2007年01月15日
団塊の世代の知的生産の技術
団塊の世代が注目を浴びている。少なくとも、彼らは日本経済を生きぬき、高度成長を支えた人たちである。やっと、世間のしがらみと組織の束縛から解放されて、自由に生きれる立場になろうという人たちである。世の中は完全にニ極化へと進んでいる。市場経済優先型とオンリーワン型である。彼らにあるのは、深い経験と組織や家庭に耐えてきた人間としての厚みである。もし、彼らに知的生産のツールが与えられ、自由に使いこなせる事ができるようになったら、彼らの潜在的に眠っていた力がよみがえり、恐ろしく独創的なアイデアが生み出されると期待できるのである。今度は、企業のためではなく、組織のためではなく、己自身のために、ツールを身につけていけば、若者や壮年には見えてこない組み合わせが発見できる可能性があるのである。人間が一番、独創性がでてくるのは、本当は定年間際である。忍び寄る闇、必ず、自然界とどこかで融和しようと試みるはずである。若いときには考えなかった、神社仏閣や自然崇拝へと無意識に心が揺れるはずなのである。それは、己と自然界との張力がだんだんと低下していき、己を意識することが弱まるはずだからである。己という意識が薄まれば、何十年という時間を掛けて蓄積した経験から何かの啓示が自然界を通して己に働きかけてくるからである。人生でもっとも円熟した感性と知恵が、最後にあふれ出るのが、定年間際なのである。組織やしきたりで凝り固まった思考回路を緩めて、現在の知的生産の技術のツールを最大限に活用すれば、日本に大きな正の財産を残せるはずなのである。日本を本当の意味で豊かに再生できるのは、団塊の世代なのである。それが彼らの最後の人生の締めくくりとなるはずなのである。
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知的生産の技術への道
私が中学生だったころ、岩波新書の知的生産の技術という本を読めと担任の先生に言われて読んだことがある。35年以上前の出来事だ。携帯もワープロも何もない時代だ。関数電卓などもない時代だ。その時のメインは手書き文書のカード化であった。その後、発想法というものがつづき、カード化されたものを、視覚化、俯瞰化し、全体のロジックを系統立てろというものだった。詳細など分からなかったが、それにひかれたのは何か青春時代に目覚めた知的なものに対しての憧れが心の中にあったからだと思う。コンピューターも言語としてフォートランやコボルといったより専門的なものだけに限られていた。到底、個人が扱えるものではなかった。夢のまた夢に近かった。会社にはいっても、電卓だけが大衆化しただけであり、知的生産に関する書籍内容も、サラリーマンが実践できるものとは、ほど遠かった。エリートの資本をもつものだけが享受できる世界であった。それから、驚くほどの進歩が起きた。パーソナルコンピューター、携帯、カード化、磁気化、電子化、そして光ファイバー、ネット・コンビニ社会、ユビキタス環境、あれよ・あれよと言う間に、技術成果は大衆化し、だれでもが、それなりに手に入れられるような社会になった。情報やツールの均質化がおきてしまった。だから、商店もコンビニか郊外型大型専門店に分かれ、量販店も統合され、ガソリンスタンドも淘汰され、セルフやセミセルフとより特徴のあるスタンドしか生き残れなくなってしまった。完全に二極化されてしまった。より付加価値の高い高級なものと、より利便性と廉価性を主軸にしたものと、その中間が生き残れない時代になってしまった。情報や技術の均質化が起きたからである。
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2007年01月14日
今ここにあること。
穏やかな日差しに包まれる。風がほとんどない静かな土曜の正午前。贅沢な時間が流れる。誰もいない緑化に包まれた空間を独り占めしている。一人の老人が来ては去る。同じ事の繰り返し。すべては、反復し減衰する。何も考えずいつかこの自然界に己も帰るのだろう。
確かにこの自然界が我々にとってはすべてである。確かに己と自然界との界面の張力を上げることは強く己を意識する事を意味する。この場合、
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2007年01月04日
2006年年末から2007年初頭の思い
2006年12月30日、今年も後数日で終わる。天気は晴れ、風も少なく穏やかな陽射に包まれる。いつも青春、最後まで青春と書いたのは今年である。その今年も終わる。現実とは違う何かが世の中にある虚数的なもの、抽象的なもの、仮想的な観念の中に作用している。不幸になる人、幸福になる人、その差は何だろうか。晦日や大晦日になくなる人、その差はなんなのか、偶然ではないような気がする。何かが虚数部に作用している。実数では補足出来ない、観測されない何かの因果が作用しているように感じる。それがどんな物か分からない。
しかし、
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