2008年04月

2008年04月30日

また、ひとり感性豊かな人(岡部伊都子さん)が85歳で亡くなられた。

 また、ひとり感性豊かな人が亡くなられた。随筆家の岡部伊都子さんである。優しくて芯のある立派な文章を書かれる人だった。若い人は、知らないかもしれない。感性豊かで、しかも、人が見逃してしまう一瞬の美のゆらぎをしっかりと捉えられる人だった。こんなところに、すずらんが咲いている。白い小さな花が風にゆれる。その小さな花にも命が宿っている。そのひとつひとつにも、慈しみのまなざしを注がれていた。岡部さんが書かれる文章の行間には、そんなイメージが溢れていた。日本の伝統美、仏像、寺院、日々の随想、どれをとっても、心洗われる思いがした。

 しかたがない。静かに旅立たれたのだと感じる。たぶん、岡部さんは、小さく小さくなって、そして、消えていったのだろう。岡部さんの文章の余韻を思い出せば、そんな言葉がぴったりとあうようである。また、ひとり、多情多感な心で昭和の激動の嵐を感じ取った女性がなくなられた。もし、感性と記憶が、コピーできるならば、その心をそのまま残しておきたかった人の一人でもあった。

 岡部さんをすごい人だと感じたのは、テレビでのインタビューを見たときだった。その印象があまりにつよく、まだその感覚だけは忘れてはいない。どの番組でいつだったか、それは忘れてしまった。太平洋戦争に出兵する婚約者を見送るとき、婚約者の男性は、「この戦争はおかしい、私はこんな戦争で死にたくない」といったとき、岡部さんは、「私ならお国のために死ねます」といったそうである。その言葉が、ずっと引っかかっていたそうである。何故、私はあんなことをいったのか、愛する人になぜ、そんな心無いことをいったのか、それを、細身の体を震わし、涙ながらに述懐し、いまでも後悔していますと発言していたのである。それが、岡部さんの出発点だといっていた。沖縄に何回も足を運ぶのも、弱者に目を配るのも、間違っていた戦争で殺されなければならない人々への、生き残ったものからの償いだったと感じる。その映像がいまでも頭に残っている。たぶん、私が生きている間は、残っているはずである。

 時代は風化する。記憶も変遷する。そして、再び、岡部さんのような感性豊かな人が出てくるとは思えない。岡部さんは、「学歴はないけど病歴はある」というほど、病気と戦った人である。そして、あの太平洋戦争、日常の中にいつも死が背中合わせにある状態であった。そこでの婚約者との永久の別れ、愛と死と命と性とが、このような形で、再び重なるとは思えない。岡部さんの感性はその重なりの中で磨かれていったのである。

 すずらんのように、ひっそりと咲いているような存在だった。今の若者はすずらんが咲いていても、すずらんと分かるだろうか、分かる人はわかるだろう。その花を愛おしいと感じれる感性を持った人なら、岡部さんの随想をどこかで、読まれることを薦めたい。人生には浮き沈みがあり、いいときもあれば悪いときもある。春うららかな陽気の中でも、一片の雲が日差しをさえぎり、影を作るときもある。そんな時、読んでみたら、あっ、このような人がいたんだ、と思うはずである。それでいいんですよと、岡部さんは、優しい目をして、どこかで、微笑んでいるような気がする。


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2008年04月29日

ネットで有名な青山学院大学の瀬尾佳美准教授と日本電産の永守重信社長

 ネットとは、実に恐ろしいものである。確かに、十分に独立した不特定多数が相互補完の上に、ネット社会は成り立っている。ひとつ何かを落とせば、つぎつぎと波紋が広がっていく。不特定多数が面白いと感じ、有効だと思った情報(個人的な思いも含め)をネット上に配信する。多くの人がWATCHしているところの場に、それが落ちれば、それを見ている人の脳が刺激される。それが連鎖反応を生むことになる。見られていないようで、誰かに見られているのである。あきらかに、時代は急激に変化している。ひとりひとりの不特定多数の力が、世論を形成するようになっている。だから、私もそれに参加しようと思う。

 ネットを見ていたら、二人の人が集中攻撃されている。一人は、青山学院大学の瀬尾准教授である。全国的な話題にまでなったのであるから、初期の頃は、相当数の人が瀬尾准教授のブログに集まったはずである。そして、激しい非難のコメントがついたはずである。それどころか、青山学院大学まで、抗議が寄せられ、とうとう学長名で謝罪までしたのである。挙句の果て、大学として、瀬尾准教授の処分まで検討しているのである。その発言の要旨をみたが、これは、確かにとんでもないことをいっているのである。これが、どこかのおばちゃんのたわごとのブログであれば、毒舌をいうおばちゃんね、ですむのである。しかし、「光市事件の死者は1.5人」「元少年が殺されれば遺族は幸せ」「差し戻した最高裁の判事の妻は、おそらく専業主婦で、TVばっかり見ていたため洗脳され、夫の仕事にも影響したのだろう」「元少年が殺されれば、報復が果せた遺族はさっぱり幸せな思いに浸るに違いない。自分の血を吸った蚊をパチンとたたき殺したときみたいにね」「永山事件の死者は4人。対してこの事件は1.5人だ」「大阪府知事なんかエロノックだって務まったくらいですから誰でもかまいません。ま、人間の廃物利用ってところでちょうどいいじゃないですか」「(拉致被害者の人は)私の目から見ると信じられないくらい幸福です。なのにその幸福に感謝もしないで、いつまでもいつまでも『めぐみっちゃん』とか不幸面してられるアンタが心底うらやましいよ、とTVを見るたびに思います」、これは、確かにいただけない。特に、拉致被害者の人に対しての文章に対しては、私でもムッとくる。青山学院大学国際政治経済学部の准教授が、たとえ、個人的なブログだろうが、これを公にしたら、問題がでるのは当然である。こうゆう考えを持った人が、教鞭をとり、学生を指導するのである。青山学院大学の尊厳が疑われるのである。また、常識的な言葉でいえば、この女性の人間としての品位をも疑いたくなる。

 当然に、瀬尾准教授は、釈明と謝罪をネット上でしている。このような発言を青山学院大学の准教授という肩書きをもつ人の立場から発信すれば、どのようなことが起きるか想像できたはずである。もし、分からなかったのなら、あまりに、ネットの怖さを知らなさ過ぎる。つい、軽い気持ちで、気を引くつもりで、ブログに書いたのであろう。それが、思わぬところから火がついて、自分の身に降りかかってきたのである。天につばを吐くと自分に帰ってくるのである。軽い気持ちで毒づいたのが、青山学院大学の准教授の立場まで危うくしたのである。それにしても、個人のブログとはいえ、発言の自由だとはいえ、これはひどすぎる。

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2008年04月28日

山口2区衆議院補選選挙、民主党が勝利、既得権の崩壊

 予想通り、衆議院山口2区で、民主党の平岡氏が自民党の山本氏に2万2000票差で破り、当選した。薩長時代からの保守の基盤が強い山口で、自民党が敗北したのである。民主党がもともと強い地盤で勝利したのではなく、もともと、岸元総理、安部前総理等のお膝元の山口でのことなのである。この投票コードは、単に山口だけではなく、今、衆議院選挙をやれば、ほぼ間違いなく、民主党が過半数を制することになるはずである。だから、自民党は、絶対に、どんな姑息な手段をとろうと、任期満了まで、衆議院を解散することはしないはずである。その間に、世論の目をそらし、挽回の機会を狙うはずである。

 側近の民意は、これであきらかに、明示されたのである。山口2区の補選、昨年の参議院選挙、民意は、自民党/公明党政権にNOといっているのである。その民意に逆らっても、4月30日に暫定税率を復活させる改正案を30日に再可決し、成立させる予定である。ゴールデンウイーク中に、ガソリン価格がリッター150円から160円になることは確実である。内閣支持率は、がたがたになるはずである。もはや、福田政権は、死に体となり、政府として機能しないはずである。

 もはや、参議院選挙で、自民党が敗北したときから、自民党の国会議員が国会議員でいられた地盤が崩れたのである。自民党参議院のボスの片山寅之助前参議院議員が、敗北したときから、分かっていたのである。今までは、公明党の支持基盤の補填を受けて、成り立っていたのである。その公明党の支持基盤を足しても、足りなくなったのである。もはや、自民党、それ自身が存続できない状況である。もちろん、自民党は、共産党や公明党のように、ひとつの理念や考え方でまとまっている党ではない、それぞれが、地域を代表するブローカーなのである。ある意味、何かしらの利権や利害関係で、自民党にいるだけなのである。だから、何かあれば平気で離党し、何かあれば平気で復党する。

 常識で考えれば、今の自民党の衆議院での2/3の力は、幻想なのである。民意は、ないのである。民意がNOといっているのに、それと逆のことを2/3の力でやろうとしている。江戸時代末期の倒幕前夜や太平洋戦争の末期、原爆が落とされた後の8月15日の玉音放送までの期間と同じである。これから、色々なところで激しいつばぜり合いが生じる。利権を維持しようと、断末魔の動きが、自民党内部で起きるはずである。パイは、すくなくなっているのである。その中で、あふれる議員が出てくるのである。その利権や商権があったから、政治家としていられたのである。口利きがあったから、地元の経済界や業者は、何かあるために、先生、先生とあがめたて、訳のわからない勉強会や講演会の名目で、せっせと、お金を指定されたところに、指定されたやり方で、合法的に入れていたのである。そう、金の切れ目が縁の切れ目になるはずである。もともと、利権や利害で結ばれた関係は、その利害や利権の配当がでなければ、その関係は切れてしまうからである。政治とはもともとそういうものだという人がいれば、まさしく、今回の結果は、政治の結果なのである。

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2008年04月27日

高機能自閉症のお子さんをもつお母さんからのコメントへの想い。

 一昨日、書いたアスペルガー症候群(高機能自閉症)に関して、高機能自閉症をもつ母親さんから下記のようなコメントが入っていた。正直、そういう視点があるのだな、と感じました。「普通」を願う気持ち、普通を装い、普通に生きようと試みる。しかし、普通の世界と交われば、どこかで、普通ではないところが出てくる。確かに、本人の自尊心やプライド、自己を肯定する気持ちは、ズタズタになるはずです。

 コメントは下記のようなものでした。
「お邪魔します。高機能自閉症(小学一年生)の母です。「高機能自閉症」の検索できました。ブログ拝見しました。こんな風に捉えていただけるとありがたいです。今、このように「発達障害を持つ子の犯罪」がよく取り上げられていますが、私の思うに この子たちは 幼少期に診断がなく、犯罪を起こしてしまってから 診断がつき、明るみになったという事があると思います。つまり、その子の「発達の偏り」に親も気づかずに成長してしまった。。。その事が、犯罪を犯してしまう事の原因になったように感じます。認めたくはないですが、確かに発達障害をもつ子(人)の犯罪は珍しくはないように思います。(実際は、加害者という立場より、被害者という立場の方が多いといわれています。)すみません。続きです。周りが正しく理解せず、幼少期からの療育も受けずに成長する・・・本人の自尊心や自己肯定感はズタズタです。そうなると・・・。一見、普通に見える子(人)。見逃される事が多いです。また、親も自分の子に障害があるなんて認めない人もいます。検診に引っかかっても、それさえも見向きもせず。。。みなさん、「普通」である事に執着されます。こんな事件で、発達障害を耳にしてしまう人が増えてしまうのは残念です。現在は、かなり早期発見、早期療育と進んではきています。
もっと正しく認知される時がきてほしいと願っています。」

 「普通」とは、自分たちが勝手に作り上げた幻想でしかないのです。そして、人生は一回きりです。時間は、一方向にしか流れません。昨日は明日には絶対にならないのです。100人いれば、それぞれ100様です。全部、違うのです。色でもそうです。赤と見て赤と感じる。私と貴方が同じ赤だと感じても、どのような赤をみたか、比較できないのです。脳の中を細かく細分化していっても、結局、それを判断するのは、脳ですから、どこまでいっても、客観的な事実とは、それを見ている人にとってのものなのです。100人いたら、100人が判断した客観的な事実が100様あることなのです。唯一絶対の客観的な事実があったとしても、それは分かりえないことなのです。

 「普通」というのは、一人ひとりが探り合った結果に過ぎないのです。自分の行為、自分が考えていることが、すくなくとも自分の周りの人と同じかどうか探りあてた結果なのです。子供が大きくなるにつれて、その社会の尺度や基準というのが、見えてきます。それが、多くの人がある事象に対して感じた平均値なのです。だから、その基準も地域や時代や民族によっても変化するわけです。関東で当たり前のことが、関西ではおかしいということもあるのです。言葉のアクセントも変わります。もし、高機能自閉症の人が多くいる地域にいれば、それが当たり前であり、それが当然なので、逆にそうでない人は、高機能自閉でないことに対して悩むはずです。逆に高機能自閉症でないことで、その本人の自尊心やプライドは、ズタズタになります。

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2008年04月25日

アスペルガー症候群の大人が会社の組織の中で誤解される。

 アスペルガー症候群とは、聞きなれない言葉である。高機能自閉症の一種で、知的障害が伴わないものである。ある意味、独創的な発想で、独自の世界観を構築する可能性がある人でもある。症候群という言葉は、ある意味、差別である。本来は症候群気質と呼ぶべきである。これも人間が勝手にある基準をもうけて、そこで分類分けしたのである。その基準の左側であれば、正常者、右にあれば、アスペルガー症候群となるのである。もちろん、多くの人が、その境目のグレーゾーンの中に偏在している。今後、このアスペルガー症候群の人たちの問題が、ひとつの企業のいや社会のキーワードになるはずである。

 このアスペルガー症候群は、人と円滑したコミュニュケーションがとりにくいのが、問題なのである。もちろん、この問題の視点も、みんなで仲良くがんばってやりましょうという視点から見ての話なのである。今はやりの「KY」、相手の空気が読めないのもひとつの症状なのである。もちろん、その本人には、その意識やそれに対しての悪意はないのである。当然に、人と何かが違うことは、差別を受けやすくなるのである。いじめの対象になりやすいのも事実なのである。結論からいって、アスペルガー症候群とは、固体差なのである。これも、100人、人がいて、100個の区別する基準を設ければ、100個の基準に対して、100人のサンプル数に対しての、分布ができるのである。とくに、言語、コミュニュケーションでの基準、こだわりへの偏狭さの基準、五感の感受性のばらつきの基準等での分布からみると、アスペルガー症候群気質の人は、外れたところに偏在しやすい人たちであるということなのである。

 基本的に自閉なのである。人と積極的にコミュニュケーションを取るのが苦手なのである。逆に言えば、それのどこが悪いかなのである。そう、何も悪くはないし、それでいいのである。空気が読めないのは、自分の感覚が、他人の感覚と異なるからである。想像力がないから、空気がよめないのではなく、その人の感覚で物事を把握しようとしているからである。誰でも、自分の中の尺度で物事をはかっている。たまたま、その尺度で、多くの人も見ているから、それがいいと錯覚しているだけのことなのである。AとBが対極にある。Aを正とみれば、Bは負なのである。しかし、Bを正と見れば、Aは負なのである。たまたま、Aを正と見る人が、多いから、Bは症候群と定義づけされてしまうのである。性同一性障害も、性同一性障害が正で、多くの人が性同一性障害であれば、普通の人が今度は性不同一性障害と呼ばれるだけなのである。

 世の中とは、そういうものなのである。ある基準に対して、多くあるところを平均として、そこからみて、どうなのかとしているのである。人間が集まるところの世界はとくにそういうものなのである。だから、本来は何もストレスを感じる必要がないのである。しかし、アスペルガー症候群の人もこの社会の中で生きていかなければならない。残念ながら、非アスペルガー症候群が多数の中で、少数のアスペルガー症候群が生きるのは、誤解をうみ、差別を受けやすいのは、しかたがないのである。当然に、回りから空気がよめない、うっとうしいと呼ばれる可能性が高いのである。ある感覚に対しては鈍感であり、ある感覚に対しては人よりも優れているのである。狭く、深く物事を感受できる力があるのは間違いないのである。
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2008年04月24日

のぞみ号とびおり自殺、自殺者ほど、企業が求める逸材であったのに。

 4月22日の午後8時10分ごろ、日が落ちて、あたりは暗闇になっている。そのとき、新幹線のぞみ150号の3号車、非常用ドアコックを使いその扉を力いっぱいに開けた。時速230キロ前後のスピードで走っている。激しい風圧を受ける。手すりを力いっぱい持っていなければ、車内に吹き飛ばされる。一人の青年(27)が、ドアの向こう側に体を預けた。あっと、いうまに、風に青年は持っていかれた。ちょうど、のぞみが、天竜川を走っているところだった。青年は、福岡市に住む専門学校の生徒だった。年齢からみて、何かあったのだろうと思う。将来のことで悩んでいたということである。

 どんな事情があるかは分からないが、自殺することはないと感じる。世の中には、生きたくても、生きれない人もいる。同年齢の人で、病気で入院しているひともいる。人の身の上のことだし、すでに、あの世に旅立った人に対して、何も言うべき言葉はないが、ほんとうに、それ以外の選択肢がなかったのかな、一人で悩むのではなく、誰か相談に乗ってくれる人がいなかったのかな、そこまで、ひとりぼっちになるまえに、何か手立てはなかったのかな、と思うだけである。やはり、自殺する若者を見るにつれて、その時期を通り越した者からみれば、心が痛むのである。若い命が、無残に散っていくのは、どうしても、空しさを覚えるのである。生きていれば、きっと、生きていてよかったと思える日が来たはずである。しかし、そんな言葉もむなしく、若者は、将来を悲観し、今の苦しさにまけて、生きることを放棄するのである。この専門学生にも27年間の人生があったはずである。詳細は知る術もない。どんな人でも、それなりの人生の軌跡はある、その幕切れが、時速230キロ前後で走行する、のぞみの非常用コックを使い、ドアをこじ開け、風圧と音圧のかかる闇の中に、身を投げて果てるとは、あまりに壮絶すぎるのである。さぞかし、ご両親の落胆は、深くつらいものであると想像する。

 のぞみ150号は、新大阪発東京行きである。この青年がどこから乗車したか分からない。福岡在住であれば、この青年は、死に場所を探していたことになる。すくなくとも、この青年は、大阪か名古屋のホームに降り立って、のぞみ150号の入線をまったはずである。仮に名古屋から乗れば、約30分前後で、天竜川付近に到着する。この青年は、30分間、死を見つめていたはずであるし、自分の今までの27年を振り返ったはずなのである。この青年の30分が、この青年の総括だったのである。30分、その青年は、引き戻せる可能性があった。非常用ノックを引きて、ドアーをあけるまでの間、この青年は、生きるか死ぬかのギリギリの選択をしていたのである。そして、サイコロは死へとふられたのである。いや、自分で死へとふったのである。

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2008年04月23日

学生が社会に出る前にやるべきこと、営業力、交渉力をつけるには

 若い人は、いい。これから、どんな夢もかなう。一年で、UPもすればDOWNもする。一年という時間の中で、すべてをひっくり返すことも出来る。とにかく、若いということは、いいことである。そう、それが出来るのは、社会人になるまでである。それからは、坂道を転げるように、中年域に達するまで、一気に時間が経過する。そこにいくと、自分の終焉が見えてくる。荒唐無稽なものでなく、ある程度、現実的なあるべき終わりの姿を感じる。そこで、もう一歩踏み込んで、がんばれば、自分が夢みていたあるべきものが得られることになる。それが、何であるか、個人によって異なる。個人にとってそれでいいのなら、それがベストになる。

 社会にでれば、色々な価値観が存在する。学生時代のように、学校の偏差値だけで、優劣は決まらない。社会に出ていく人の中で1割ぐらいの人だけが、その学生時代に学んだ専門の技術や知識で、飯が食べれるだけである。そう、毎年毎年、学校を卒業して、社会に出て行く人が結構いる。日本の企業の規模がそれほど拡張していかないのと、上層の人がリタイアしないために、研究や技術職の枠が限られてくる。そこで、ふるいにかけられる。企業や法人で、学生時代に習得した技術や知識で生計を立てられる人というのは、本当に限られている。その他の人は、どうなるか、すべて、内部と外部との対人関係の中で、仕事をして、生計を立てることになるのである。自分のやりたいことが、大企業の中で出来る人は、ほんのわずか、それと、自分のやりたいことを、優先してやりたければ、少人数の会社に行くか、それか、個人事業主としてやるか、仲間と一緒に企業を立ち上げるかなのである。世の中は、それほど甘くはない。しかし、うまくいく人とうまくいかない人の差を観察すれば、うまくいく人には、ある共通点があるのである。

 ここからが、大事なのである。それは、対人関係なのである。自分以外の外部の人間とどのように付き合うかなのである。そして、どれだけ、短い時間に多くの人と接触し付き合い、話ができるかなのである。それが交渉率になるのである。△交渉する人数/△時間なのである。一時間に10人と交渉できる人は、一時間に一人と交渉できる人と比べると、10倍交渉率が高いことになる。それが、対人関係を広くするバロメーターになる。その交渉率が高い人ほど、うまくいく確率が非常に高くなるのである。

 社会にでれば、営業である。社内の営業もあれば、外部との取引先の営業もある。世の中で、一番、難しい営業は、飛び込み営業なのである。そして、その商品も一般的なものであればなおさら困難さが伴うのである。知らない家を一軒一軒、チャイムを鳴らし、どうですかと、営業をする。これは、普通は出来ない。頭では簡単だが、実際には、精神的にめげてしまう。販売というのは、ある意味、確率の世界であり、この商品で、この価格で、この地域を回れば、だいたい、このくらいの確率で売れるというのは、マーケットリサーチで出てくるのである。

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2008年04月22日

山口県光市母子殺害事件、差し戻し控訴審判決、「死刑」

 人は、いつでも、「死」と背中合わせで暮らしている。交通事故、災害、通り魔、テロ、一瞬にして、何の準備もなく、死んでしまう。健康に留意していても、車で走っていて、対向車線から、タイヤが飛び込んで、死亡することもある。道を歩いていたら、ビルの屋上から人が落ちてきて、運悪く当たって死亡することもある。突然、大地震が起きて、家屋の下敷きになって死亡することもある。休みの日に、駅前に散歩に行き、突然、通り魔に刃物で突き刺され死亡することもある。地下鉄に乗っていたら、異臭をかぎ、そのまま意識不明で死亡することもある。電車に乗っていたら、脱線し、ビルの中に突っ込み、そのまま死亡することもある。もちろん、その状況に遭遇し死亡することは、確率の問題である。本人には何の落ち度も責任もない。あくまで、たまたま、死と直面したのである。これは、どうすることもできないのである。

 それは、確率なのである。もちろん、そうならなかった可能性もあるのである。その人を特定したのではなく、不特定の中の一人として死と重なったのである。同じ、死であっても、殺害事件とそれらの死との間に何の差異があるのだろうか。当然、そこに、強い殺意があるかないかに掛かっているのである。人の命を奪う、または、奪ってもいい、相手に死を与えることの意思が殺意なのである。殺人罪における死とは、客観的な事実、被害者の心肺停止状態だけでの「死」ではないはずである。加害者が、どういう状態で、被害者を殺したか、その一瞬の殺意の度合いが重要なのである。殺意にも、程度がある。その中に、加害者の殺意に対するエネルギーが、どれだけ、入っていたかが問題なのである。いわば、殺意の加速度がどうであるかなのである。その加速度が強ければ、極刑にならざるを得ない。どれだけ、短時間の間に、相手に対する殺意を強くみなぎらせたか、逆にいえば、被害者も、それでけ、強く、短時間の間に恐怖を味わったことになるからである。

 今回の差し戻し審理は、最高裁が平成18年6月に、「18歳になって間もないことは死刑を回避すべき決定的な事情とまではいえない」としめし、さらに「無期懲役の量刑は甚だしく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する」などとして審理を高裁に差し戻したことから始まった。その際戻し審判判決が、22日、広島高裁で出たのである。楢崎康英裁判長である。

 一審、二審で、無期懲役の判断を下したのは、被告が事件当時、死刑を科すことのできる18歳になってから30日だったことが理由のひとつなのである。しかし、最高裁は、18歳になって間もないことは死刑を回避する決定的な事情とまではいえないとし、さらに、無期懲役の量刑は不当だといっているのである。最高裁は、高裁に対して、死刑を下すべきだと、いっているのである。そして、実際にそのとおりの判決になったのである。弁護側は、意地でも上告するだろうが、最高裁でも、同じ判決を下すことになるだろう。
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2008年04月21日

エドはるみさんを手本とする経営者や営業部長としての可能性

 最近、テレビを見ていて、面白いギャクを連発しているおねいさんがいると思っていた。声がしっかりとしている。端正な振る舞い、それでいて、自分のエゴを突き破る勇気、そして、前向きに、笑いをもって、場を変えていこうとするその気迫、ただならぬ人だと直感した。その人の名前は、エドはるみさんだと、知った。何がすばらしいか、それは、人間として、いや、対人関係をメインとした仕事に対しての姿勢が、すばらしいのである。頭が下がる思いである。

 テレビには、向こう側とこちら側がある。こちら側で見る人は、グーグーグーと連発し、軽快な踊りで笑いを取る彼女をどこかで蔑んでみている。それはしかたがない。上司から怒られ、仕事場でもうまくいかない、そんな営業マンが、居酒屋で、ビールを飲みながら、会社や上司の悪口で憂さを晴らしている。居酒屋のテレビから、グーグーグーと面白いギャクを連発するのを見て、ゲラゲラ笑うのである。それは、それでいい。しかし、世の中は、結果なのである。彼女も、ブレイクするまでは、テレビのこちら側にいたのである。しかし、今は、テレビの向こう側にいるのである。そう、テレビのこちら側と向こう側の差が、憂さを晴らしている会社員が、伸びて、中間管理者を通り越して経営者になれるかなれないかの差でもあるのである。それは、一体何なのか、それは、自分をさらけ出す勇気なのである。

 エドはるみさんは、立派である。ここまで、心機一転で自分をさらけ出し、前に前に勇気をもって立ち向かう人を、私はあまり知らない。ネットで経歴を調べた。東京オリンピックのときに生まれている。明治大学を卒業し、演劇を目指していた。いろいろなことをしている。声や立ち振る舞いがしっかりとしているのは、下積みの演劇修習時代に習得した結果であろう。基本的に頭がいいから、PCのインストラクターとしてもそれなりに収益を得たはずである。エドはるみさんに対して、本当に頭がさがるのは、ここからなのである。彼女の言葉を借りれば、「ふつふつと湧き上がる笑いに対する情熱を抑えきれず」なのである。もともと、演劇を志願していたから、何かを感じやすく、それを体で表現したかったのだろう。突然、40歳を超えてから、その内なる衝動が、芽吹きだしたのである。色々なところに経歴がしるされている。そこから抜粋すれば、2005年にR-1グランプリに出場し、敗退する。その後、本格的に笑いを勉強するために、吉本興業の養成学校(東京NSC)に最年長として入学したのである。彼女は、年齢とキャリアを捨てて、一からやり直したのである。若手の中に混じっている。芸人の世界には年齢は関係がない。キャリアと年功なのである。まさしく、リストラされた40歳の会社員が、再就職をし、自分よりも10歳も20歳も年下の上司に向かって、さんづけで、呼ぶのと同じ経験をするのである。

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2008年04月20日

「可愛くない」せんとくん、12種類のボーズをする「不気味な」せんとくん

平城遷都1300年記念事業協会が、あの「可愛くない」マスコットキャラクターの愛称をせんとくんに決めたと発表し、併せて、12種類のバターンの図柄も発表したのである。
各図柄のせんとくんを識別すると下記のようになる。

1. お祈りするせんとくん
2. 指差すせんとくん
3. 走るせんとくん
4. だっこしてのせんとくん
5. ウォーキングするせんとくん
6. 寝そべるせんとくん
7. 万歳するせんとくん
8. ポーズをとるせんとくん
9. ないしょないしょのせんとくん
10. にやけるせんとくん
11. あたまがいいでしょ、をするせんとくん
12. あのね、をするせんとくん

ここまでくると、可愛くないを通り越して、ある意味、不気味であり、不可解であり、おぞましささえ、漂うのである。もちろん、この12種類のせんとくんを可愛い、かっこういい、面白いと思う人もいるだろう。それは、個人の判断であるから、なんともいえない。たしかに、この「可愛くない」せんとくんの図柄のおかげで、各マスコミやネットで取り上げられたため、このイベントの宣伝効果が15億円になったそうである。平城遷都の事業協会としては、してやったりと思っているかもしれない。意図的に、この奈良を挑発させるような図柄を選んだとしたら、この宣伝効果としての結果に対しては、あっぱれといわざるを得ない。さらに、エスカレートするこの12種類を公開したのであるから、この協会の実行委員は、あきらかに、確信犯なのである。この不可解で不気味な図柄、あるいみ、仏さんを侮辱しかねない図柄でもって、収益を最優先にしたのである。これを見て、不快に思う人の気持ちを無視して、話題性があがればいいと、思ったのである。ネット社会では、話題性が重要なのである。それが、連鎖を生むからである。ある意味、正解かもしれない。しかし、仏さんに鹿の角は、いただけない。

イベントまで、2年ある。ネット社会では、つぎつぎ、話題をつなぎとめなければ、あきられる。尻切れトンボでは、このせんとくんでの宣伝効果15億円がパーになるからである。

たぶん、この不気味なせんとくんを、動画化し、さらに3D化し、音声をつけるかもしれない。実行委員は、確信犯である。後、2年、話題性を持たせるためには、このくらいは平気なはずである。たしかに、この12種類のせんとくんを見ていたら、気持ちが悪くなってきたのである。


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