2008年05月
2008年05月29日
人は必ずミスをするものです。生産管理技術の基本
人は、必ずミスをする。では、機械はミスをしないか、機械もミスをする。なぜなら、磨耗するからである。新品の車は快調に動く。しかし、走行距離が多くなれば、どこかに、ひずみをもち、調子がわるくなる。コンピューターもミスをする。そう、神さまもミスをするのである。ミスがないとは、1+1=2が100%成り立つことである。インプットとアウトプットが、必ず、何かの相関がなりたつことである。10に2を足せば、12になり、10に2を掛ければ20になる。当たり前だが、何かの拍子に、13になったり、30になったりする。人がやれば、計算ミスといい、パソコンが、それをしたら、人は、何かの条件が偶然に重なると、そういう計算ミスがおこる可能性があるというバグを考える。修正プログラムがでる。
何故、人はミスをおかすのか、それこそ、人という個体差があるからである。田中さんと鈴木さんと佐藤さんがいたとする。田中さんが見る世界は、常に、田中さんの五感を通して得た情報を元にして、作られる。同じく、鈴木さんも佐藤さんもそうである。同じ人間でも、すこしづつ違う。臓器の大きさも能力も違う、人はそれを才能という。誰でもが、同じ訓練をしても、オリンピックで金メダルをとれる運動能力を発揮できるとは限らない。同じ事を教えても、ノーベル賞を取れるような発明や発見をできるとは限らない。それと、田中さんが感じる世界と鈴木さんが感じる世界と佐藤さんが感じる世界が、たとえ、同じインプットをしても、そのアウトプットの違いにより、異なる場合がある。厳密に言えば、十人十色である。全部違うはずである。だから、田中さんは、鈴木さんが見える世界、感じる世界がどんなものであるか分かるはずがない。人のことは、厳密に言えばわからない。
田中さんは、鈴木さんという人を、田中さんが見えるように見ている。たとえ、鈴木さんがそれと違っても、田中さんにとって、鈴木さんとは、田中さんが見えたそのままの姿なのである。田中さんにとって、鈴木さんが、とても嫌な奴だったら、鈴木さんは、嫌なやつなのであり、逆に、佐藤さんにとって、鈴木さんが、とてもすばらしい人と写ったら、鈴木さんはとてもすばらしい人なのである。
そう、鈴木さんが、俺はそんな男ではないといっても、田中さんが、そう思ったら、田中さんにとっては、そういう人なのである。鈴木さんにとっても、そういう人なのである。人によって、評価が分かれるのは、基本的に、すべてが主観によって判断されるからである。だから、100人いれば、100人全員がいいということは、まれである。50%以上の人がいい人だと感じれば、いい人だというのである。世の中は、まさか、あの人がというのは、その人の中味が、外部の人にはわからないからである。
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何故、人はミスをおかすのか、それこそ、人という個体差があるからである。田中さんと鈴木さんと佐藤さんがいたとする。田中さんが見る世界は、常に、田中さんの五感を通して得た情報を元にして、作られる。同じく、鈴木さんも佐藤さんもそうである。同じ人間でも、すこしづつ違う。臓器の大きさも能力も違う、人はそれを才能という。誰でもが、同じ訓練をしても、オリンピックで金メダルをとれる運動能力を発揮できるとは限らない。同じ事を教えても、ノーベル賞を取れるような発明や発見をできるとは限らない。それと、田中さんが感じる世界と鈴木さんが感じる世界と佐藤さんが感じる世界が、たとえ、同じインプットをしても、そのアウトプットの違いにより、異なる場合がある。厳密に言えば、十人十色である。全部違うはずである。だから、田中さんは、鈴木さんが見える世界、感じる世界がどんなものであるか分かるはずがない。人のことは、厳密に言えばわからない。
田中さんは、鈴木さんという人を、田中さんが見えるように見ている。たとえ、鈴木さんがそれと違っても、田中さんにとって、鈴木さんとは、田中さんが見えたそのままの姿なのである。田中さんにとって、鈴木さんが、とても嫌な奴だったら、鈴木さんは、嫌なやつなのであり、逆に、佐藤さんにとって、鈴木さんが、とてもすばらしい人と写ったら、鈴木さんはとてもすばらしい人なのである。
そう、鈴木さんが、俺はそんな男ではないといっても、田中さんが、そう思ったら、田中さんにとっては、そういう人なのである。鈴木さんにとっても、そういう人なのである。人によって、評価が分かれるのは、基本的に、すべてが主観によって判断されるからである。だから、100人いれば、100人全員がいいということは、まれである。50%以上の人がいい人だと感じれば、いい人だというのである。世の中は、まさか、あの人がというのは、その人の中味が、外部の人にはわからないからである。
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2008年05月28日
般若心経に書かれている事
私の右手には、いつも般若心経が彫られている念誦がつけられている。私は、特定の宗教団体に属しているわけではないし、特定の宗教に帰依しているものではない。ごく、普通の人間である。ユダヤ人と付き合って、色々とユダヤ教の考え方も聞いたし、ユダヤ人の技術者を日本によんで、一緒に仕事をしたこともある。その人がユダヤ教に帰依していたので、ユダヤ教の戒律がどんなものであったか、目の当たりにしたことがある。もちろん、アメリカで、キリスト教に帰依している技術者ともいっしょに仕事をしたこともある。キリスト教が彼らの生活や人生観とどう関っているか、勉強することもできた。彼らが、日本に来たときは、京都や奈良に連れて行き、日本の文化を体感させたこともある。もちろん、個人的には、色々な宗派の寺院や神社にまわって、その教えの本質を感じたこともある。
しかし、個人的には、いや、日本人として生まれた私には、どうしても、宗教には違和感があった。宗教とは、ひとつの文学だと感じた。だから、物理的な世の中の成り立ちを理解したほうが、大局がつかめると感じた。出発点は、やはり、ビックバーンにあった。時間を逆流していくと、低エネルギーから高エネルギーの場へとたどり着く。膨張の場から収縮の場へとつながる。なぜか、わからないが、エネルギー保存則がある。それは、この宇宙がひとつの閉じられた系であることを示唆する。そうすると、誰でもが、この宇宙の始まりを考える。なぜか、わからないが、突然、何かのきっかけで、ビックバーンがおき、ボーンとこの世がうまれたことになる。超高温、超高圧の場であったはずである。その力で、この宇宙がひろがり、その圧力の力で、どんどん膨張していき、温度が冷えていった。その一瞬は、すべてが、溶けていた、この宇宙にあるすべてが、ひとつの融合体であったはずである。そして、その過程の中で、なぜか知らないが、ちょっとしたきっかけで、地球がうまれ、またちょっとしたきっかけで、人類が誕生して、訳のわからないことを考えるようになった。どの国の神話でも、始めは、混沌から始まっている。混沌とは、高温、高圧場の状態、(高エネルギーの場)である。
私が知っている限り、目に見える事象、頭で考えた事象、この世のもの、すべてが、空であると、一刀両断に打ち消したものは、般若心経しかない。ある意味、人類に対しての大胆不敵な挑戦でもある。そして、般若心経は、多くの日本人にお経として毎日読まれている。その音を聞くにつれ、いったい、何人の日本人が、その経文に書かれた意味を理解して、読んでいるのか、分からなくなる。そんなことは、関係ないといえば、それまでである。それも、空であるといえば、それで終わりだからである。
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しかし、個人的には、いや、日本人として生まれた私には、どうしても、宗教には違和感があった。宗教とは、ひとつの文学だと感じた。だから、物理的な世の中の成り立ちを理解したほうが、大局がつかめると感じた。出発点は、やはり、ビックバーンにあった。時間を逆流していくと、低エネルギーから高エネルギーの場へとたどり着く。膨張の場から収縮の場へとつながる。なぜか、わからないが、エネルギー保存則がある。それは、この宇宙がひとつの閉じられた系であることを示唆する。そうすると、誰でもが、この宇宙の始まりを考える。なぜか、わからないが、突然、何かのきっかけで、ビックバーンがおき、ボーンとこの世がうまれたことになる。超高温、超高圧の場であったはずである。その力で、この宇宙がひろがり、その圧力の力で、どんどん膨張していき、温度が冷えていった。その一瞬は、すべてが、溶けていた、この宇宙にあるすべてが、ひとつの融合体であったはずである。そして、その過程の中で、なぜか知らないが、ちょっとしたきっかけで、地球がうまれ、またちょっとしたきっかけで、人類が誕生して、訳のわからないことを考えるようになった。どの国の神話でも、始めは、混沌から始まっている。混沌とは、高温、高圧場の状態、(高エネルギーの場)である。
私が知っている限り、目に見える事象、頭で考えた事象、この世のもの、すべてが、空であると、一刀両断に打ち消したものは、般若心経しかない。ある意味、人類に対しての大胆不敵な挑戦でもある。そして、般若心経は、多くの日本人にお経として毎日読まれている。その音を聞くにつれ、いったい、何人の日本人が、その経文に書かれた意味を理解して、読んでいるのか、分からなくなる。そんなことは、関係ないといえば、それまでである。それも、空であるといえば、それで終わりだからである。
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2008年05月27日
川田アナウンサー自殺、著名人の自殺は、連鎖を生む。
どのような理由か、分からないが、若い人の自殺はやはり止まらない。テレビに出ている若い人が、自殺したと聞くと、つらくなる。死を乗り越えられないどんな苦しみが、あったのだろうか、よく分からない。川田さんが最後に感じた人生風景は、いったいなんだったのだろうか。自殺は練炭をつかったようである。練炭を車の後部座席において点火し、内部から目張りをし、たぶん、強い睡眠薬とアルコールをつかって、意識を朦朧とさせたはずである。人に見つからなければ、九分九厘、一酸化酸素中毒で、死んでしまう。
川田さんは、ある意味、成功した人である。TBSのアナウンサーも、普通では入れない。学歴や家柄、個人の性格、容姿、すべてを、チェックされる。キー局の女子のアナウンサーである。テレビのブラウン管で、その姿が映し出される。言葉遣い、立ち振る舞い、声の質の中に、個人の性格まで重なって、伝播される。だから、放送局は、慎重に、人を選んでいる。それを、通過してきた人である。しかも、フリーになっても、仕事があるひとである。放送局の看板を外しても、彼女に仕事がくるのであるから、テレビの内側にいる人たちからの信頼は、あったはずである。それでも、自殺する。どんな理由かはわからないが、彼女の使われていない未来までも、消去してしまった。ご冥福を祈るしか方法がない。
これは、ある程度の連鎖を生むことになる。テレビに出ている著明人が、自殺をすれば、彼女に親近感をもっていて、死にたいと思っている人は、安心するはずである。仮想の道ずれが成立するからである。死への恐怖が薄れるからである。自殺を抑止する方法は、あの世への恐怖を意識させることでもある。自殺を考えている人は、この世で、これ以上、生きたくないと考えている人である。生きたくないとは、これ以上、感情を動かして、悩みたくないと感じている人だからである。感情をとめて、記憶を消し去るのは、自分をなくすことである。肉体と精神が、表裏一体と感じているから、感情を消すことと肉体を消すことが同じと錯覚している。自殺を止めるには、その肉体と精神が、一枚岩のようにくっついたところに、楔を打ち込んで、離してあげる必要がある。それは、その人個人と接触して、その内面に入りこむ必要がある。だから、カウンセリングは、有効である。しかし、自らカウンセリングに来て、救いを求めてくる人は、大丈夫である。誰かに、自殺を止めてもらいたいと心のどこかでそう思っているからである。
自殺を決行するひとは、短絡的に実行する。なぜか、そのほうが、らくだからである。人は、何かをするときに、特別な意図や意思が働かない限り、その人にとって楽な方法をとる。自殺を決行するひとは、やはり、そうするのである。普通の人は、自殺しない。楽ではないからである。あの世の恐怖を取り除いて、死の準備をしなければならない。相当な試練や困難が待ち受けている。自らの意思で自らの力で、自らの命を絶つことは、難しいことなのである。だから、昔の武士が、腹をきって自害するには、それなりの自己の鍛錬が必要だった。だから、切腹が美化されたのは、切腹できるほど、自己の精神が研ぎ澄まされたことへの評価として、美化されたはずである。切腹を美化したのではなく、そこまで強く鍛錬したその精神力を褒め称えたのである。私はそう考える。
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川田さんは、ある意味、成功した人である。TBSのアナウンサーも、普通では入れない。学歴や家柄、個人の性格、容姿、すべてを、チェックされる。キー局の女子のアナウンサーである。テレビのブラウン管で、その姿が映し出される。言葉遣い、立ち振る舞い、声の質の中に、個人の性格まで重なって、伝播される。だから、放送局は、慎重に、人を選んでいる。それを、通過してきた人である。しかも、フリーになっても、仕事があるひとである。放送局の看板を外しても、彼女に仕事がくるのであるから、テレビの内側にいる人たちからの信頼は、あったはずである。それでも、自殺する。どんな理由かはわからないが、彼女の使われていない未来までも、消去してしまった。ご冥福を祈るしか方法がない。
これは、ある程度の連鎖を生むことになる。テレビに出ている著明人が、自殺をすれば、彼女に親近感をもっていて、死にたいと思っている人は、安心するはずである。仮想の道ずれが成立するからである。死への恐怖が薄れるからである。自殺を抑止する方法は、あの世への恐怖を意識させることでもある。自殺を考えている人は、この世で、これ以上、生きたくないと考えている人である。生きたくないとは、これ以上、感情を動かして、悩みたくないと感じている人だからである。感情をとめて、記憶を消し去るのは、自分をなくすことである。肉体と精神が、表裏一体と感じているから、感情を消すことと肉体を消すことが同じと錯覚している。自殺を止めるには、その肉体と精神が、一枚岩のようにくっついたところに、楔を打ち込んで、離してあげる必要がある。それは、その人個人と接触して、その内面に入りこむ必要がある。だから、カウンセリングは、有効である。しかし、自らカウンセリングに来て、救いを求めてくる人は、大丈夫である。誰かに、自殺を止めてもらいたいと心のどこかでそう思っているからである。
自殺を決行するひとは、短絡的に実行する。なぜか、そのほうが、らくだからである。人は、何かをするときに、特別な意図や意思が働かない限り、その人にとって楽な方法をとる。自殺を決行するひとは、やはり、そうするのである。普通の人は、自殺しない。楽ではないからである。あの世の恐怖を取り除いて、死の準備をしなければならない。相当な試練や困難が待ち受けている。自らの意思で自らの力で、自らの命を絶つことは、難しいことなのである。だから、昔の武士が、腹をきって自害するには、それなりの自己の鍛錬が必要だった。だから、切腹が美化されたのは、切腹できるほど、自己の精神が研ぎ澄まされたことへの評価として、美化されたはずである。切腹を美化したのではなく、そこまで強く鍛錬したその精神力を褒め称えたのである。私はそう考える。
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2008年05月26日
天と地の考え方、創造性開発のヒント
物事には、ふたつの考え方がある。ひとつは、事象をひとつひとつ積み上げていって、その中から何かしらの結論を見つけ出す方法と、もうひとつは、何かしらの結論を先に想定し(感じて)、それに向かって、事象を構築していく方法である。普通のひとは、前者の方法を黙々とおこなう。どこへいくのか、分からない。しまいには、一体自分は何をやっているのかわからなくなる。多額な金額を投資して、企業は新しいものを開発しようとしている。大体、うまくいかない。そう、新しいものは、組織の中からは、出てこない。ひとりかふたりの天才型の人が、ぱっと、ひらめいて、それを見つけてしまう。世の中は、そういうものである。人は、地に足をつけてみんなとともに生きている。地の考え方で生きている。そこからでは、新しい発想はでてこない、もっと、自由性のある天からの啓示を受けなければ、創造性のある開発は出来ない。それができるひとは、少ない。なぜか、地の論理に縛られているからである。
私には、将棋の才能がないが、将棋のプロは、ある程度、局面が動けばどのような形で最終的な詰み形になるか想定する。この局面からいって、どういうふうになっていくか、ひらめくのだそうである。そのイメージができたら、そこから、逆に手順をおっていく。その形にもっていくには、どうさしたらいいか、感じるのである。たぶん、考えるのではない、きっと、感じるのである。素人は、そんなふうには、指さない。目先の変化しかみない。この駒を動かせば、相手がこうさす、そして、数手数十手ぐらいで、頭がおかしくなる。だから、今のコンピューターの将棋ソフトには、かなわない。なぜなら、コンピューターは、記憶して、手を読んでいくからである。ひとつひとつ積み上げていっても、今のPCは、演算処理速度と記憶能力が、凡人以上にあるからである。考えること(ロジックをもとにして計算する能力)に関しては、人間は、コンピューターに勝てないからである。しかし、人間には感じる能力がある。コンピューターには、感じる能力がない。量子的な確率の世界で事象を演算する量子コンピューターができたとしても、感じる能力は、人間には及ばないはずである。
天と地、それは、陰陽にもつながり、易の八卦の組み合わせにもなる。確かに、森羅万象はその組み合わせかもしれない。天とは、エネルギーの高い状態であり、方向性が決まっていない状態である。相転移の考え方でいえば、気体の状態である。気体は、目に見えない。水であれば、水素と酸素がばらばらに、この空気の中に、とけて、あっちにいったり、こっちにいったりしている状態である。だれも、こうだとはいえない。しかし、この空気のなかにあることは100%である。温度が冷えてくれば、水が出てくる。水が、空気の中からでてくる。雲である。細かい水の粒子の集合体である。それが、凝集して、重たくなって、雨となる。気温が下がれば、雪となる。雪の結晶をみることができる。そう、その結晶こそ、方向性なのである。磁石もそうだし、液晶もおなじ、その方向性をもつことで、ひとつの機能をもつのである。ただし、方向性をもつことは、限定されること、その機能に特定されることになる。だから、地なのである。
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私には、将棋の才能がないが、将棋のプロは、ある程度、局面が動けばどのような形で最終的な詰み形になるか想定する。この局面からいって、どういうふうになっていくか、ひらめくのだそうである。そのイメージができたら、そこから、逆に手順をおっていく。その形にもっていくには、どうさしたらいいか、感じるのである。たぶん、考えるのではない、きっと、感じるのである。素人は、そんなふうには、指さない。目先の変化しかみない。この駒を動かせば、相手がこうさす、そして、数手数十手ぐらいで、頭がおかしくなる。だから、今のコンピューターの将棋ソフトには、かなわない。なぜなら、コンピューターは、記憶して、手を読んでいくからである。ひとつひとつ積み上げていっても、今のPCは、演算処理速度と記憶能力が、凡人以上にあるからである。考えること(ロジックをもとにして計算する能力)に関しては、人間は、コンピューターに勝てないからである。しかし、人間には感じる能力がある。コンピューターには、感じる能力がない。量子的な確率の世界で事象を演算する量子コンピューターができたとしても、感じる能力は、人間には及ばないはずである。
天と地、それは、陰陽にもつながり、易の八卦の組み合わせにもなる。確かに、森羅万象はその組み合わせかもしれない。天とは、エネルギーの高い状態であり、方向性が決まっていない状態である。相転移の考え方でいえば、気体の状態である。気体は、目に見えない。水であれば、水素と酸素がばらばらに、この空気の中に、とけて、あっちにいったり、こっちにいったりしている状態である。だれも、こうだとはいえない。しかし、この空気のなかにあることは100%である。温度が冷えてくれば、水が出てくる。水が、空気の中からでてくる。雲である。細かい水の粒子の集合体である。それが、凝集して、重たくなって、雨となる。気温が下がれば、雪となる。雪の結晶をみることができる。そう、その結晶こそ、方向性なのである。磁石もそうだし、液晶もおなじ、その方向性をもつことで、ひとつの機能をもつのである。ただし、方向性をもつことは、限定されること、その機能に特定されることになる。だから、地なのである。
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2008年05月23日
サラリーマンは気楽なものではなくたった。もう公務員も気楽ではなくなる。
子供のとき、東宝映画で、ゴジラの怪獣映画を見た。そのとき、大体、それとくっついて、加山雄三さんの若大将シリーズや、亡くなられたクレージィキャッツの植木等さん主演の無責任男シリーズが上映されていた。子供のとき、こんな面白い世界があるのか、植木等さんという人は、すごい人だと思った。強いインパクトが、私の中に残っている。だから、植木等さんの、“サラリーマンとは気楽な家業ときたもんだ”のフレーズが、時々、思い出される。映画の中の植木等さんは、確かに気楽で、すいすいすいと出世してしまう。失敗もするが、落ち込まず、まあ、いいか、つぎ、がんばっていこうと、気分を入れ替えていくのである。代替、無責任シリーズは、どのような場面であっても、トップまでのぼりつめ、その映画の中でのもっとも美しい人を射止めてしまうものである。痛快な映画だった。
無責任シリーズの時代背景は、まさしく、高度成長なのである。東京オリンピック前後の話なのである。戦争で、すべてを失った日本が復興していく過程での話しである。もともと、日本には、戦艦大和、ゼロ戦などを作れる技術はあった。戦時中、日本でも、原子爆弾をつくる計画はあったし、実際に、研究されていた。ただ、物資がなかったために、核分裂を利用した兵器の実用化までいけなかった。だから、広島、長崎に原爆が落とされたとき、その状況からみて、すぐにそれが、原爆だとわかった。もう、勝てないと悟ったのである。
だから、復興して、体力がついてくれば、日本の工業力が出てくるのは当然である。もともと能力があった国が、戦争で、全滅し、それが、元にもどっただけである。そして、世界が、自由になり、市場がふえれば、そこに需要がでてくるのも当たり前、だから、日本には、仕事が溢れていた。やる気さえ、あれば、何でもできた。町工場をつくっても、仕事がきたらから、ある意味、普通にやれば、町工場が中小企業になれたし、才覚があれば、町工場でも、上場会社になれた時代なのである。すべてが右肩あがり、銀行もちゃんと融資してくれたし、どの企業も当たり前に経営をし、日本の右肩上がりの成長と同期していれば、銀行がバックアップしてくれたのである。
そして、年功序列、終身雇用制度、ある程度の会社であれば、定年まで、そして、その後の年金まで、きちんと面倒をみてくれたのである。だから、植木等さんが歌ったように、サラリーマンは気楽な家業ときたもんだ、が通用したのである。物をつくれば、売れる時代であったから、企業は人手が足りなくてしかたがなかった。民間のサラリーマンの方が、公務員よりも豊かな生活ができたのも事実である。
しかし、今は、公務員とは気楽な家業ときたもんだ、とまだ歌える時代である。時代は、右肩上がりの幻想がはじけ、日本は、世界の中での競争原理のまっただなかに置かれてしまった。それと、情報化時代とネット時代、日本やアメリカが作り上げたデジタル技術が、情報の拡散を許してしまった。今までわからなかったものが、どこでもだれでも簡単に分かるようになった。
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無責任シリーズの時代背景は、まさしく、高度成長なのである。東京オリンピック前後の話なのである。戦争で、すべてを失った日本が復興していく過程での話しである。もともと、日本には、戦艦大和、ゼロ戦などを作れる技術はあった。戦時中、日本でも、原子爆弾をつくる計画はあったし、実際に、研究されていた。ただ、物資がなかったために、核分裂を利用した兵器の実用化までいけなかった。だから、広島、長崎に原爆が落とされたとき、その状況からみて、すぐにそれが、原爆だとわかった。もう、勝てないと悟ったのである。
だから、復興して、体力がついてくれば、日本の工業力が出てくるのは当然である。もともと能力があった国が、戦争で、全滅し、それが、元にもどっただけである。そして、世界が、自由になり、市場がふえれば、そこに需要がでてくるのも当たり前、だから、日本には、仕事が溢れていた。やる気さえ、あれば、何でもできた。町工場をつくっても、仕事がきたらから、ある意味、普通にやれば、町工場が中小企業になれたし、才覚があれば、町工場でも、上場会社になれた時代なのである。すべてが右肩あがり、銀行もちゃんと融資してくれたし、どの企業も当たり前に経営をし、日本の右肩上がりの成長と同期していれば、銀行がバックアップしてくれたのである。
そして、年功序列、終身雇用制度、ある程度の会社であれば、定年まで、そして、その後の年金まで、きちんと面倒をみてくれたのである。だから、植木等さんが歌ったように、サラリーマンは気楽な家業ときたもんだ、が通用したのである。物をつくれば、売れる時代であったから、企業は人手が足りなくてしかたがなかった。民間のサラリーマンの方が、公務員よりも豊かな生活ができたのも事実である。
しかし、今は、公務員とは気楽な家業ときたもんだ、とまだ歌える時代である。時代は、右肩上がりの幻想がはじけ、日本は、世界の中での競争原理のまっただなかに置かれてしまった。それと、情報化時代とネット時代、日本やアメリカが作り上げたデジタル技術が、情報の拡散を許してしまった。今までわからなかったものが、どこでもだれでも簡単に分かるようになった。
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2008年05月22日
橋下大阪府知事、職員の給料を削減率15%提示
橋下大阪府知事が、財政再建に向けて、職員の月給を16−4%、退職金を10−5%削減する案を職員組合の2団体に提示した。一人当たりの平均削減率は15%となり、国家公務員を100とした場合の基本給水準を表すラスピレス指数が89となり、都道府県で最低のレベルとなる。また、一般職の退職金カットに踏み込むのは、初めてである。
間違いなく、組合側は猛反発するのは、必死である。もちろん、期間は限定され、今年の8月から2010年の年度末までである。つまり、2008年で、五ヶ月、2009年で、12ヶ月、2010年で12ヶ月、2011年で、3ヶ月、合計、32ヶ月間のカットである。08年度で、352億の削減であれば、8月から08年度末まで、8ヶ月、つまり、月、44億平均、大阪府の財政がすこしは良くなる。すべては税金である。それでも、32ヶ月分であれば、1408億円の削減でしかない。大阪府の借金は、5兆円である。焼け石に水でしかないが、それでも、しないよりはしたほうがよい。民間であれば、当に倒産であり、それだけの給料などもらえるわけがない。
誰でも、給料が減らされると聞いて、はいそうですか、というわけにはいかない。色々な御託を並べて、反対するはずである。職員も、月々、定額の給料が入ることを計算にいれて、ローンや支出の計画を立てている。猛反発するのは、当然である。しかし、基本的に、彼らの収入源は、税金である。これから、間違いなく、全体的な税収入は減る。今は、府債発行で、その不足分を補っている。これにも限界がある。消費税を上げたり、増税すれば、世論の反発を招くことは必死である。消費は冷え、経済は不況へと向かい、結局、総額の税収入が減ることになる。
いくら、猛反発しようが、これは、避けることができない選択肢である。人を削減することは、住民へのサービス低下につながるのであれば、人はそのままにして、一人当たりの支出を抑えるのは、小学校の生徒でも分かることである。もし、それが、不服なら、辞めたらいいのである。しかし、世の中、公務員ほど楽な仕事はない。利益を追求することがないため、与えられた仕事をこなせばいいだけである。そこに、相対的な仕事の質の優位性が評価されないため、やればいいのであって、すばらしくやる必要はないのである。絵を描くことが仕事であれば、小学生の絵でも、二科展入賞の絵でも、同じなのである。絵を描くこと、それ自身で給料をもらっているため、小学生程度の絵でも、入賞するほど芸術性の高い絵でも、絵を描くという仕事の内容は同じなのである。そこに仕事の質に対しての優位性の評価がないため、基本的に給料は同じになるからである。
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間違いなく、組合側は猛反発するのは、必死である。もちろん、期間は限定され、今年の8月から2010年の年度末までである。つまり、2008年で、五ヶ月、2009年で、12ヶ月、2010年で12ヶ月、2011年で、3ヶ月、合計、32ヶ月間のカットである。08年度で、352億の削減であれば、8月から08年度末まで、8ヶ月、つまり、月、44億平均、大阪府の財政がすこしは良くなる。すべては税金である。それでも、32ヶ月分であれば、1408億円の削減でしかない。大阪府の借金は、5兆円である。焼け石に水でしかないが、それでも、しないよりはしたほうがよい。民間であれば、当に倒産であり、それだけの給料などもらえるわけがない。
誰でも、給料が減らされると聞いて、はいそうですか、というわけにはいかない。色々な御託を並べて、反対するはずである。職員も、月々、定額の給料が入ることを計算にいれて、ローンや支出の計画を立てている。猛反発するのは、当然である。しかし、基本的に、彼らの収入源は、税金である。これから、間違いなく、全体的な税収入は減る。今は、府債発行で、その不足分を補っている。これにも限界がある。消費税を上げたり、増税すれば、世論の反発を招くことは必死である。消費は冷え、経済は不況へと向かい、結局、総額の税収入が減ることになる。
いくら、猛反発しようが、これは、避けることができない選択肢である。人を削減することは、住民へのサービス低下につながるのであれば、人はそのままにして、一人当たりの支出を抑えるのは、小学校の生徒でも分かることである。もし、それが、不服なら、辞めたらいいのである。しかし、世の中、公務員ほど楽な仕事はない。利益を追求することがないため、与えられた仕事をこなせばいいだけである。そこに、相対的な仕事の質の優位性が評価されないため、やればいいのであって、すばらしくやる必要はないのである。絵を描くことが仕事であれば、小学生の絵でも、二科展入賞の絵でも、同じなのである。絵を描くこと、それ自身で給料をもらっているため、小学生程度の絵でも、入賞するほど芸術性の高い絵でも、絵を描くという仕事の内容は同じなのである。そこに仕事の質に対しての優位性の評価がないため、基本的に給料は同じになるからである。
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2008年05月21日
オーナー企業とパブリック企業の違いとは、(企業の組織とは)
オーナー企業とは、発行株式の51%以上の株を所有している個人が、会社の経営の実権を握っている会社である。実権とは、会社の代表取締役を担っていることである。仮に、会社の代表取締役でないとしても、51%以上の株を所有している人の意向には、逆らえないことになる。ワンマン会社といっても過言ではない。いくら、組織があっても、その組織には、権力構造は発生しない。仮に、その発行株主の51%以上を所有している男性と男女の関係にある女性が、その会社にいれば、部長だろうが、取締役だろうが、専務だろうが、その女性に実質的に盾つくことはできない。なぜなら、そのオーナーと夜の密会で、人事の話をされれば、それで終わりだからである。まったく、江戸時代の大奥と同じである。将軍のお手つきとなれば、一気に、女帝となるからである。そのオーナーが、その女性に骨抜きされてしまえば、その女性は、社内から、副社長とうわさされることとなる。どこにでもある話である。
オーナー企業は、将軍とおなじ、オーナー企業のトップの意向ですべてが決定される。いくら、組織があり、その中で、がんばっても、絶対にトップにはなれない。番頭でおわりである。オーナー企業が、オーナー企業として成長できるのは、ひとえに、そのトップの人間性だけである。その人間性に問題があれば、業績をのばしても、いつか必ず斜陽するし、二代目が、先代と同様の人間性を示さなければ、これまた、二代目で、会社がつぶれることになる。企業が大きくなれば、発行株式の51%以上の株を所有できなくなるし、委任状をもらっても、過半数は得られなくなる。相対的な筆頭個人株主と51%以上の株を所有している株主では、その権力は月とすっぽんの違いがある。
パブリック会社とは、上場している会社とは限らない、個人の発行株が、全体の1/3未満であれば、その個人の株主は、株主の権限しか付加されない。1/3以上1/2未満であれば、特別議決を必要とする会社の決定事項に対して、反対する権利を有するため、それなりの力を有することができる。だから、株数をかき集めても、その議決権の総数が全体の1/3未満であれば、何もできないのと同じである。パブリック会社とは、ひとつ、ひとつの株主が、分散され、それぞれが、独立した意思をもっている企業をいうのである。もちろん、上場している会社であれば、株主構成は、株式市場で変動する。企業買収(TOB)は、分散されている、独立した意思をもっている個々の株主に対して、所有している株を売ってくださいと公募することである。そして、それが、51%以上取得できれば、その会社を子会社化できることになる。それが、個人であれば、その個人の会社になる。オーナー企業になることである。
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オーナー企業は、将軍とおなじ、オーナー企業のトップの意向ですべてが決定される。いくら、組織があり、その中で、がんばっても、絶対にトップにはなれない。番頭でおわりである。オーナー企業が、オーナー企業として成長できるのは、ひとえに、そのトップの人間性だけである。その人間性に問題があれば、業績をのばしても、いつか必ず斜陽するし、二代目が、先代と同様の人間性を示さなければ、これまた、二代目で、会社がつぶれることになる。企業が大きくなれば、発行株式の51%以上の株を所有できなくなるし、委任状をもらっても、過半数は得られなくなる。相対的な筆頭個人株主と51%以上の株を所有している株主では、その権力は月とすっぽんの違いがある。
パブリック会社とは、上場している会社とは限らない、個人の発行株が、全体の1/3未満であれば、その個人の株主は、株主の権限しか付加されない。1/3以上1/2未満であれば、特別議決を必要とする会社の決定事項に対して、反対する権利を有するため、それなりの力を有することができる。だから、株数をかき集めても、その議決権の総数が全体の1/3未満であれば、何もできないのと同じである。パブリック会社とは、ひとつ、ひとつの株主が、分散され、それぞれが、独立した意思をもっている企業をいうのである。もちろん、上場している会社であれば、株主構成は、株式市場で変動する。企業買収(TOB)は、分散されている、独立した意思をもっている個々の株主に対して、所有している株を売ってくださいと公募することである。そして、それが、51%以上取得できれば、その会社を子会社化できることになる。それが、個人であれば、その個人の会社になる。オーナー企業になることである。
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2008年05月20日
「君たちにはプライドがないのか」といった大手企業の偉い人の話
世の中、何でも、コスト削減の時代である。確かに、物を作るのは、結構しんどい話である。携帯電話を作るのも、パソコンを作るのも、車を作るのも、コピー機をつくるのも、テレビを作るのも、誰でも出来るものではない。身の回りにある、便利なもの、我々は、あたりまえのように使っているが、それを生み出すためには、それ相当の多くの先人たちの努力があって出来たものである。それが、文明とよばれているものである。
そう、文明が発達し、人が、豊かになり、市場経済という実態のないわけの分からない場で、賭博とおなじように、“きったはった”の世界で、お金の出し入れをしている。それが、売買である。“売った、買った”の世界である。それが、需要のバランスで決まる。経済というのは、実に単純なモデルなのである。そして、その根底にあるのが、人間という集団の意思である。ある条件の下、多くの人がいれば、その多くの人たちの意思の傾向がその場に現れる。人間の根底は、エゴである。自分の欲望に対して、短絡的な傾向を示すのである。そのある条件が分かれば、その多くの人の集団の傾向が予測できる。それが、需要となる。だから、金を持っている人は、その需要となる品物を安く仕入れて抑えてしまう。そして、その条件が当たっていれば、しめしめ、儲けたことになる。水戸黄門にでてくる悪徳米問屋の話しである。それは、まったく、株式市場と同じなのである。株式も市場経済の代表格なので、おなじ性質をもつのは当然である。
世の中には、確かに二つのタイプの人がいる。ひとつは、垂直的に考える人たちである。物事の本質を見極め、その原理を見つけ、新しいものを作り出そうとする人たちである。生産財を担当する人たちである。米や野菜をつくるのも同じである。物を作り出すためには、どうしたら、いいか、いいものを作り出すには、どうしたら、いいか、どうしたらいい商品を生み出せるか、それを研究、開発し、製造する人たちである。機械を作るのもそうだし、その機械を用いて、何かを生み出すのもそうだし、大地を利用して、食べ物をつくるのもそうである。つまり、何かを作り出すことが、好きな人達なのである。生み出すものが、物であることもあるし、ものでないこともある。それが、音楽や映像や詩や絵画でもありうる。垂直的な相対評価の中で、価値が生まれるのである。だれでも、絵はかける。だれでも詩は書ける。しかし、どれだけ垂直的に掘り下げしかも、スキールを磨き、いいものを作り上げたかで、その芸術性の価値が相対的に決まる。
世の中には、それとことなり、水平的に考える人もいる。垂直的に考えた人のものをより多くの人に広めることを考える人たちである。いいものがあっても、それは普及しない。直物があっても、植物は、移動できない。花は美しく咲く、その美しい花を、世界に広げようとしても、その花は、自らの力ではどうすることもできない。だから、みつばちがいるのである。蝶がいるのである。鳥がいるのである。だから、花は美しく咲くのである。そこに蜜があることを昆虫や鳥に知らしめるのである。それで、花粉を広げるのである。相互補完が成り立っているからである。
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そう、文明が発達し、人が、豊かになり、市場経済という実態のないわけの分からない場で、賭博とおなじように、“きったはった”の世界で、お金の出し入れをしている。それが、売買である。“売った、買った”の世界である。それが、需要のバランスで決まる。経済というのは、実に単純なモデルなのである。そして、その根底にあるのが、人間という集団の意思である。ある条件の下、多くの人がいれば、その多くの人たちの意思の傾向がその場に現れる。人間の根底は、エゴである。自分の欲望に対して、短絡的な傾向を示すのである。そのある条件が分かれば、その多くの人の集団の傾向が予測できる。それが、需要となる。だから、金を持っている人は、その需要となる品物を安く仕入れて抑えてしまう。そして、その条件が当たっていれば、しめしめ、儲けたことになる。水戸黄門にでてくる悪徳米問屋の話しである。それは、まったく、株式市場と同じなのである。株式も市場経済の代表格なので、おなじ性質をもつのは当然である。
世の中には、確かに二つのタイプの人がいる。ひとつは、垂直的に考える人たちである。物事の本質を見極め、その原理を見つけ、新しいものを作り出そうとする人たちである。生産財を担当する人たちである。米や野菜をつくるのも同じである。物を作り出すためには、どうしたら、いいか、いいものを作り出すには、どうしたら、いいか、どうしたらいい商品を生み出せるか、それを研究、開発し、製造する人たちである。機械を作るのもそうだし、その機械を用いて、何かを生み出すのもそうだし、大地を利用して、食べ物をつくるのもそうである。つまり、何かを作り出すことが、好きな人達なのである。生み出すものが、物であることもあるし、ものでないこともある。それが、音楽や映像や詩や絵画でもありうる。垂直的な相対評価の中で、価値が生まれるのである。だれでも、絵はかける。だれでも詩は書ける。しかし、どれだけ垂直的に掘り下げしかも、スキールを磨き、いいものを作り上げたかで、その芸術性の価値が相対的に決まる。
世の中には、それとことなり、水平的に考える人もいる。垂直的に考えた人のものをより多くの人に広めることを考える人たちである。いいものがあっても、それは普及しない。直物があっても、植物は、移動できない。花は美しく咲く、その美しい花を、世界に広げようとしても、その花は、自らの力ではどうすることもできない。だから、みつばちがいるのである。蝶がいるのである。鳥がいるのである。だから、花は美しく咲くのである。そこに蜜があることを昆虫や鳥に知らしめるのである。それで、花粉を広げるのである。相互補完が成り立っているからである。
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2008年05月19日
乗りテツ、大阪JR福島駅から天満駅まで120円、530キロの記事を見た。
ネットで、大阪JR福島駅から天満駅まで120円、530キロの記事を見た。大都市近郊区間のみを利用する場合の特例があって、その範囲で、一筆がきで電車を利用するなら、乗車駅と降車駅の間の最短距離が、そのときの運賃となる制度である。昔から、その特例はあった。そう、私の子供のときから、それはあった。大阪環状線の福島から天満駅まで、確かに、120円である。近郊区間の範囲で、一筆がきであれば、確かに、和歌山から奈良、木津から草津、米原、近江塩津、それから、湖西線経由で京都にもどり、それから大阪に帰るものである。鉄道ファンなら、取り立てて、特記すべき記事ではない。昔から、電車に乗ることが好きな人なら、珍しいことではない。そう、私も小学生高学年から中学校の一年くらいまでの間、時刻表をくくりながら東京近郊区間をどうすれば、最長の一筆書きができるか、研究したものだった。そして、しばしば、それを実践したものだった。当時の近郊区間がどうであったか、忘れたが、相模線で茅ヶ崎までいき、そして東京へ、それから千葉を回って、高崎経由、八高線で中央線にもどってきた。そんな記憶がある。当時は、自動改札などなかったから、キセル乗車とみなされることを警戒した。だから、一筆書きが、出来るように、理論をたてなければならなかった。逆に言えば、それが面白かった。
もちろん、もう、40年近く前の話である。新幹線も新大阪までしか延びていなかった時代である。151系、181系のこだま型が全盛時、あのブルーラインの581系、583系の電車寝台が、鉄道が好きな少年の憧れだった。中学生のとき、どうしても、乗りたくて、九州の親戚の家に遊びに行くのに、東京から新幹線で新大阪までいき、そして、581系のみどりに乗ったことを今でも鮮明に覚えている。当時、カラーテレビを持っている家も少なかった。車なども少なかった。昭和の40年代初期の時代である。漫画も少年マガジンや少年サンディーである。今と違って、パソコンもなく、携帯もなく、個人で楽しめるのは、ラジオぐらいであった。そう、中学時代だったとおもう、文化放送の深夜のパーソナリティが、作家の落合恵子さんや今テレビで活躍しているみのもんたさんであった。
時代の速度が、これほどではなかった。それでも、竹村健一さんが、モーレツとかいう言葉を連発し、時代のさきがけとして、マルチタスク人間として脚光を浴びていた。まだ、パソコンなどもなく、8ビットのベーシックをやるのでも、すごい奴と思われていた。もちろん、少年には、科学に対する憧れがあった。今のように、英語と接する機会もなかった。中学校一年から、ABCを習う時代であった。知的好奇心のある少年は、PCのフォートラン言語を何とか分かろうと努力していた。それがかっこよく写っていた。それが、まだ見ぬ、自分たちの将来の夢とつながっていた。分からないことばかりであった。思春期の中に突入した頃である。今のように、推理小説の犯人がすぐに分かるような状況ではなく、どうしても、ひとつひとつのページを追っていかなければ、犯人にたどり着けない時代だったのである。そんな中で、私も大きくなり、社会人となり、家庭をもち、ここまで生きてきた。10年、20年、25年、あっという間だった。まだ、私は若い方である。取引先の大手の会社の役員の方々、研究開発の役員の方々は、私よりもずっと年配の人たちである。色々とご指導を受けている。それも、あっと、いう間である。光陰矢のごとしである。
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もちろん、もう、40年近く前の話である。新幹線も新大阪までしか延びていなかった時代である。151系、181系のこだま型が全盛時、あのブルーラインの581系、583系の電車寝台が、鉄道が好きな少年の憧れだった。中学生のとき、どうしても、乗りたくて、九州の親戚の家に遊びに行くのに、東京から新幹線で新大阪までいき、そして、581系のみどりに乗ったことを今でも鮮明に覚えている。当時、カラーテレビを持っている家も少なかった。車なども少なかった。昭和の40年代初期の時代である。漫画も少年マガジンや少年サンディーである。今と違って、パソコンもなく、携帯もなく、個人で楽しめるのは、ラジオぐらいであった。そう、中学時代だったとおもう、文化放送の深夜のパーソナリティが、作家の落合恵子さんや今テレビで活躍しているみのもんたさんであった。
時代の速度が、これほどではなかった。それでも、竹村健一さんが、モーレツとかいう言葉を連発し、時代のさきがけとして、マルチタスク人間として脚光を浴びていた。まだ、パソコンなどもなく、8ビットのベーシックをやるのでも、すごい奴と思われていた。もちろん、少年には、科学に対する憧れがあった。今のように、英語と接する機会もなかった。中学校一年から、ABCを習う時代であった。知的好奇心のある少年は、PCのフォートラン言語を何とか分かろうと努力していた。それがかっこよく写っていた。それが、まだ見ぬ、自分たちの将来の夢とつながっていた。分からないことばかりであった。思春期の中に突入した頃である。今のように、推理小説の犯人がすぐに分かるような状況ではなく、どうしても、ひとつひとつのページを追っていかなければ、犯人にたどり着けない時代だったのである。そんな中で、私も大きくなり、社会人となり、家庭をもち、ここまで生きてきた。10年、20年、25年、あっという間だった。まだ、私は若い方である。取引先の大手の会社の役員の方々、研究開発の役員の方々は、私よりもずっと年配の人たちである。色々とご指導を受けている。それも、あっと、いう間である。光陰矢のごとしである。
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2008年05月16日
福田康夫内閣総理大臣は、15代将軍徳川慶喜になれるか、
私は、福田首相のメルマガを購読している。もちろん、ネットであるから、登録すれば、誰にでも送られてくる。送られてきたら、ざっと目を通すだけである。私は、基本的に福田首相は、いい人だと感じる。ただし、いい人が、いい内閣総理大臣とは限らない。そう、日本という国があまりに肥大化し、動脈硬化を起こしている。内閣総理大臣が、こうしたいと利他の精神で、いっても、笛吹けど踊らずが現状である。内閣総理大臣にまで、なれた人である。歴代の総理経験者でも、棚から牡丹餅みたいな人もいたかもしれないが、やはり、それなりの人だと思う。内閣総理大臣は、能力があっても、人望があっても、どこかで、総理大臣になれる運がないとなれないのである。
どのようなものでも、始まりがあれば必ず終わりがある。徳川家康が作った江戸幕府も、15代将軍慶喜で大政奉還し、徳川政権に幕を閉じた。薩長で作った明治政府も、太平洋戦争の敗戦で、天皇を中心とした軍閥政治に幕を閉じた。そして、戦後自民党と全国にめぐらした官僚機構政治が、今まさに、断末魔状態にある。参議院で、自民党は退廃した。今の状態は、小泉政権時代のドサクサ紛れで得た議席数を頼りにして、延命しているにすぎない。今の自民党、公明党連立内閣は何もできない内閣なのである。何一つ決められない内閣である。衆議院を解散することができない、腑抜けの内閣である。今、選挙をやれば、過半数さえも、危うい状態であり、連立を組む公明党も負ける選挙に体をはって、支持母体の創価学会を動かすことができないからである。
いつまで、その幻想にしがみついているのであろうか、とっくの間に、祭りはおわっているのである。その余韻だけにしがみついて、まだ祭りが続いているような錯覚にしがみついているのが、現状である。今、解散したら、負けると分かっているなら、今までの政策が間違っているということなのである。今の自民党/公明党連立内閣は、間違っていることを間違っていると認めることができず、ただ、慣性の流れにのって、惰性で政治をしているだけである。自分が正しいと胸をはっていえるなら、自分たちこそが、憂国の獅子であると言えるなら、どうどうと、世論に訴えて、衆議院を解散して、民意が自分たちにあるかどうか聞くべきである。
私は、個人的には、福田首相の性分は好きである。お惚けだが、根の優しさが見え隠れする。人間的には、いいおじいちゃんだと、感じる。たぶん、福田首相個人としては、一般財源化をしなければ、だめだ、公務員改革も断行しなければ、この国の未来はないと思っているはずである。そう、残念ながら、笛噴けど踊らず、福田首相は、すでに、裸の王様状態になっている。安部前首相のときも、結局、同じことが起きたはずである。自民党も公明党もみんな、このままではどうにもならないと分かっている。しかし、見えない官僚組織の自己防衛が、強いのである。官僚というのは、官僚に官僚をとったら、何も残らない人たちである。その身分があるから、官僚でいられるのである。もちろん、官僚や役人、一人ひとりが悪いのではない。ただ、それが、あつまり、ひとつの組織やシステムを形成すると、今の日本の現状に合わない属性がでてくるのである。ひとり、ひとりは、善良でいい人かもしれない、しかし、それが、組織として、役人という一塊になると、恐ろしいほどの、エゴが生まれるのである。まさしく、無謀な第二次大戦に突入したのとおなじである。軍部(官僚組織そのものである)が、満州事変から、太平洋戦争に突入したのも、ひとつの、軍部というエゴが出てきて、いちど、流れがついたら、引き戻せなくなるのと同じである。軍部の上層部や外務省も、アメリカと戦って、勝てるとは思っていなかった。ただ、何かの力で、交戦した以上は、最後まで戦って散華しようと思ったのである。たいていの人は、やるだけやって、優位なところで講和に持ち込むことを考えていた。ただ、優位なところがどこか分からず、いつのまにか、撤退、撤退となり、気がついたら、原爆が落とされて、無条件降伏していたのである。
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どのようなものでも、始まりがあれば必ず終わりがある。徳川家康が作った江戸幕府も、15代将軍慶喜で大政奉還し、徳川政権に幕を閉じた。薩長で作った明治政府も、太平洋戦争の敗戦で、天皇を中心とした軍閥政治に幕を閉じた。そして、戦後自民党と全国にめぐらした官僚機構政治が、今まさに、断末魔状態にある。参議院で、自民党は退廃した。今の状態は、小泉政権時代のドサクサ紛れで得た議席数を頼りにして、延命しているにすぎない。今の自民党、公明党連立内閣は何もできない内閣なのである。何一つ決められない内閣である。衆議院を解散することができない、腑抜けの内閣である。今、選挙をやれば、過半数さえも、危うい状態であり、連立を組む公明党も負ける選挙に体をはって、支持母体の創価学会を動かすことができないからである。
いつまで、その幻想にしがみついているのであろうか、とっくの間に、祭りはおわっているのである。その余韻だけにしがみついて、まだ祭りが続いているような錯覚にしがみついているのが、現状である。今、解散したら、負けると分かっているなら、今までの政策が間違っているということなのである。今の自民党/公明党連立内閣は、間違っていることを間違っていると認めることができず、ただ、慣性の流れにのって、惰性で政治をしているだけである。自分が正しいと胸をはっていえるなら、自分たちこそが、憂国の獅子であると言えるなら、どうどうと、世論に訴えて、衆議院を解散して、民意が自分たちにあるかどうか聞くべきである。
私は、個人的には、福田首相の性分は好きである。お惚けだが、根の優しさが見え隠れする。人間的には、いいおじいちゃんだと、感じる。たぶん、福田首相個人としては、一般財源化をしなければ、だめだ、公務員改革も断行しなければ、この国の未来はないと思っているはずである。そう、残念ながら、笛噴けど踊らず、福田首相は、すでに、裸の王様状態になっている。安部前首相のときも、結局、同じことが起きたはずである。自民党も公明党もみんな、このままではどうにもならないと分かっている。しかし、見えない官僚組織の自己防衛が、強いのである。官僚というのは、官僚に官僚をとったら、何も残らない人たちである。その身分があるから、官僚でいられるのである。もちろん、官僚や役人、一人ひとりが悪いのではない。ただ、それが、あつまり、ひとつの組織やシステムを形成すると、今の日本の現状に合わない属性がでてくるのである。ひとり、ひとりは、善良でいい人かもしれない、しかし、それが、組織として、役人という一塊になると、恐ろしいほどの、エゴが生まれるのである。まさしく、無謀な第二次大戦に突入したのとおなじである。軍部(官僚組織そのものである)が、満州事変から、太平洋戦争に突入したのも、ひとつの、軍部というエゴが出てきて、いちど、流れがついたら、引き戻せなくなるのと同じである。軍部の上層部や外務省も、アメリカと戦って、勝てるとは思っていなかった。ただ、何かの力で、交戦した以上は、最後まで戦って散華しようと思ったのである。たいていの人は、やるだけやって、優位なところで講和に持ち込むことを考えていた。ただ、優位なところがどこか分からず、いつのまにか、撤退、撤退となり、気がついたら、原爆が落とされて、無条件降伏していたのである。
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