2008年06月

2008年06月30日

音楽のレコーデングを終えてみると、音楽で生計を立てるためには?

 近くにある、そこそこのフリースタジオで、レコーデングを行った。なるほどと感じた。若いおにいちゃんといっても30を過ぎていて、音楽の学校で、ミキシングの講師をしている息のいい人が、ミキシングを担当してくれた。大体、防音室の部屋とミキシングルームがあり、ヘッドホンとマイクで、音響ルームとミキシングルームとの間をコミュニュケーションが成り立っている。防音の音響ルームとミキシングルームとは、ガラスを通して、それぞれの内部の挙動は分かる。後は、高性能のパソコンとキーボードで、それぞれのトラックに、ボーカルであれば、その音を録音し、各パートの音と重ね合わせる。コーラスを入れるとき、その作業を見ていたが、これは、明らかに、職人芸である。感性と経験がものをいうはずである。声質とリズムと全体とのバランスをすぐさま感受し、ボーカルの音を最適化させることが、ミキシングエンジニアの仕事である。これは、以外と割りに会わない仕事のように感じる。基本的に、エンジニアと呼ばれ、アーティストとは一線を記すようである。色々とその細部のメカを聞いていると、どのように、音が加工されていくのかが分かる。音源を商業化する企業であれば、いいスタッフと機材がそろっている。時間とお金といいエンジニアがいれば、アイドルの歌もそれなりに、商業化できる。ライブで音程を外す人も、デジタル音源の中では、いかようにもなるということを教えられた。mm秒の中で、高速フーリエ変換をし、倍音を重ねたり、ノイズを削除していけば、滑らかな音源になる。その手間を惜しまなければ、誰でもが、デジタル音源の中で、すばらしいボーカリストになる。

 そこのスタジオに、色々な若いおにいちゃんやおねいちゃんや、いい年をしたおじさんたちが、楽器を持ち込んで音楽を楽しんでいた。この中で、音楽で生計を立てられる人は、ほんのわずかである。そして、30歳前後でも、月20万を稼げればいいほうである。たぶん、音楽関連の業界でもすそのを広げると化粧品産業と同じように一兆円はあるだろう。コンテンツとしての音楽での日本の市場は、6000億から7000億規模である。それだけの規模を考えると、芸人の世界と同じように、この音楽関連は、激しい格差社会であるはずである。全体の2割の人で、8割の収益を分配しているはずである。後の8割で残りの2割の人が収益で分配していなければ、ここまでの格差は生まれない。ほんの一握りの人が、莫大な利益をむさぼる構図が見えてくる。そこに、売れて、名前がたてば、年収数億、売れずに、名前がつかなければ、年収数百万も満たないはずである。したがって、夢をもってやっている人は、どこかで音楽から足を洗って、サラリーマンになる。そして、趣味として、バンドをやる程度になるはずである。それが、現実の姿であると、感じる。そう、サラリーマンは、年収と人数との相関は、正規分布がたつ、平均約年収500万にピークがたち、それ以上もそれ以下も似たような比率の分布になる。しかし、芸人やアーチストの場合は、正規分布ではない、指数分布である。多くの人が貧しく、一握りの人が、巨大な収益をもつ構造である。

 そのスタジオに通ってくる人達をみていると、これでは、売れないと感じる。どこかで、一攫千金を夢みている人もいるだろう、好きな音楽で生計を立てられればいいと考えている人もいるだろう、しかし、普通以上でもこの関係式ではうまくはいくはずがない。人間の能力には、それほど差はないはずである。では、その一握りとその他の人の違いは一体何なのか、それは、運でもないし、才能でもない、もちろん、それも必要である。しかし、根本的なのは、全体を読む力である。音楽関連も、出版関連も、基本的に商売である。需要と供給が必ずある。人を売り出すにも、お金が掛るのである。アーチストを一人売り出すにも、それなりの投資(お金)がいるのである。プロダクションや音楽事務所も、営利団体である。投資に対するリターンを計算にいれるからである。音楽をやっている人が、仮に億万長者でも、自分をひとつの商品として見た場合に、考えることは、そのリターンである。個人投資の場合に、その時間、自分は有効な時間を消費したと割り切れる程度の自己投資額であれば、そのリターンが少なくてもなるほどと思える。もし、自己投資以上の投資を企業がしたならば、その企業は、リターンはそれ以上くると判断できるから行うのである。もちろん、失敗する場合もある。それはそれでしかたがない。人間は欲望の塊である。企業が金を出すには、それなりの下心がある。
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2008年06月27日

不安定な少年少女の心、17歳の少年が奈良で父親を斧で殺害

 情報が開示されやすくなったためだろうか、それとも、潜在的にこのような事件の芽が世の中にはあり、それが、飽食家の内臓に多発するポリープのように、表面に出てくるようになったのであろうか、それにしても、父親を殺害した少年の心は、あまりにも、激しすぎる。そこまで、自分を追い込まなければならなかった少年の心は、いったいどこから来たのだろうか。きっと、孤独だったのである。表面上、付き合っていた友人はいただろうが、それも、はかない線で結ばれていた関係だったのであろう。彼の内面まで、土足であえて入り込み、その閉ざされた心の扉を押し上げ、その捻じ曲がった心を強引にでも、変えることが出来る人がいなかったのだろう。社会はそういうことが出来る人をもとめているはずである。そのときがきたように感じる。戦後の浮かれた教育と社会のひずみが現れだしたようである。ひっぱたいても、殴り倒してでも、矯正してやらなければ、閉ざされた少年や少女を社会の中で、生き返らせることは出来ない時代になったようである。

 無職の17歳の少年は、自分の人生に何を見たのだろうか、殺された会社員の父(51歳)と次男(15歳)との三人家族だそうである。その状況の中で、自分の不満を父親にぶつけたのである。一時の感情の乱れに対して、自分を抑圧する力を失ったのである。秋葉原の犯人もそうである。殺人を犯す人は、みんなそうである。凶器を出して威嚇する段階、凶器を出して、接触させるだけの段階(きりつけること)、凶器で軽くさす段階(致命傷にはならない)、凶器を力いっぱい突き刺す段階、最終段階まで、今は見境もなく一気にいってしまうのである。そこまで、十秒である。爆発すれば、ためらわず、一気に加速して、力を入れて、殺してしまうのである。たった、数秒の分岐点なのである。それで、すべてが、おわってしまう。被害者も加害者も、それで終わってしまうのである。

 時々、朝、幼稚園児が手をつないで歩く姿を見る。黄色い帽子をかぶり、幼稚園の制服を着て、水筒をもって、仲良く歩いている。その光景は、何十年前からほとんど変わらない。自分も園児のとき、そうであったし、自分の子供もおなじ格好をしていた。先生に引率されて、きょろきょろしながら歩いている。誰もが、似たような経験をしているはずである。そう、それから、小学校へ行き、中学校へいき、高校へいく。たった10年の変化に対して、人は大きく変わるのである。成人後の10年など、差はない。30歳と40歳の差は、個人差の範囲に含まれる。すべてが、自意識を持ち始め、自分と他人を区別しだしたときから、始まる。幼稚園児が、十数年後、自分の父親を殺すと考えていただろうか、それを予測することができたであろうか、行動を起こすのは、己の意思である。しかし、実際に己の意思など、どこにもない。あるようでいて、ない。そもそも、自分という自意識も突き詰めれば、どこにあるのかなど定かではない。それは、単に記憶があるから、そして、今を意識するから、そこに連続的な自分がいるように錯覚するだけである。
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2008年06月26日

リズムとは何か、呼吸とか間とかなんなのか、営業マンはリズムをつかめ。

 楽譜を見ていると、テンポが記されている。四分音符に100と記されていたら、一分間に、四分音符で100回、パルスを刻むことをいう。四分の四拍子と書かれてあれば、一小節は、4/100分、つまり、2.4秒である。音楽の時間で学習したはずであるが、16分音符が二つ集まれば、八分音符、それが二つ集まれば四分音符である。俗にいうエイトビートというのは、8分音符で刻まれたリズムをいい、16ビートというのは、16分音符で刻まれたリズムをいうのである。リズムには、あきらかに、強弱があり、4ビートであれば、最初に強拍がある。ボイストレーニングを受けると、そのリズム感まで、教えられることになる。リズム感を体感し、そのメロディのリズムを感受しなければ、歌が歌えないからである。4分の四拍子の曲であっても、必ず、八分音符の連音が入ってくる。歌であれば、その八分音符のひとつに、歌詞の文字の音がはいる。たとえば、“げんきです”ということばにメロディを仮に素直につければ、八分音符が元気に対して3個つき、“で”に対して、付点四分音符をつけ、“す”に対して四分音符をつけ、そして、四分休符をその後につければ、“げんきです”が、一小節に入ることになる。八分音符が入っている以上、最小リズムを、八分音符であわさないと、リズムがずれることになる。エイトビートは、一と、二と、三と、四と、となり、表拍、裏拍、表拍、裏拍になる。四分音符は、八分音符二つのため、体感するリズムは常に、エイトビートの拍を感じて歌わなければ、言葉と音符とがずれることになる。

 通常、レコーデングする場合には、後で、色んな音源(コーラスやオケ)を載せる可能性がある。最終の音源に歌を載せてレコーデングなどしない。よほどの実力がなければ、うまく載せることはできない。したがって、基本となる、ドラム拍やベース拍に歌をあわさなければ、後で、重ねあわすことなどできない。これは、意外と難しいのである。ドラムをやっている人は、常に倍のリズムを体感していなければ、突っ込む可能性もありまたは遅れる可能性もあるのである。俗にいう“のり”が悪くなるのである。8ビートは16で、16ビートであれば、32分音符を感受していなければ、リズムをコントロールすることはできない。素人がカラオケで歌を歌うのと、お金をいただいて、歌を聞かせる人とは、根本的に違うのである。

 心の中でリズムを感受して、歌を歌うことと、相手の呼吸を感受して、営業マンが話しをするのと、基本的に同じである。プロのボーカルは、そのリズムにあわし、しかも、それと共鳴するように、腹式で息を作り、それを声帯で音に換えているのである。しかも、喉や口元で音を乱してつぶすことなく、綺麗な歌声として聴衆の人の鼓膜に歌声を届かしているのである。プロのボーカルは、どうしたら、声が乱れることなく、そして、声が落ちることなく、ひとつひとつの歌詞の音を連続的に綺麗に、情感をこめて歌うかを研究している。そして、人の作り出せる息の量はきまっている。水泳と同じように、息継ぎしなければ、歌いきることなどできない。だから、どこで、ブレスしなければならないかを考えている。それが、呼吸の間になるのである。
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2008年06月25日

サラリーマン人生においての役つくり、仕事つくりとは、

 世の中が、漆黒のひとつの闇であれば、その中にはなにもない。すべてが、闇の中に溶けていれば、何も生じない。コッブの中に、純水をいれる。不純物のないものとする。もちろん、その中には気体が溶けているが、それはないものとする。もし、世の中が、ひとつの純水であるならば、何も変化はない。しかし、現実には、色んな不純物がある。物が混じっている。そのたくさんある物のひとつひとつとその水とは交じり合っている。物の表面は水と接している。つまり、界面を持っていることになる。

 人も同じである。社会という空間の中に、たくさんの人がいる。ひとりひとりは、社会という空間に対して界面をもつことになる。もちろん、社会の中には、エネルギーが満ちている。無秩序なノイズもあるし、穏やかなゆらぎもある。また、人は弱い存在である。己の心をそのままの状態で、社会と接すれば、その界面は、社会から力を受ける。車のタイヤと同じである。世の中に、己ひとりだけが存在すれば、己ひとり、唯我独尊的にあるがままでいい。何もしなくていい。しかし、ひとり、ふたり、それぞれが、それぞれのエゴをもった存在として、社会の中にいれば、そこに、それぞれのエゴの対立が生じる。そこに力学関係が存在する。昔の民族間の対立、宗教観の対立、いざこざの根っこはここから生じている。そのために、人は社会と接する己の界面を強くするか、力を受けても、吸収するような弾力性を持つように努める。自己防御が働くからである。その界面の膜をもつこと、それが、社会的な役つくりになるのである。

 役者と基本的に同じである。おとなしくて、人のいい人が、映画で悪人を演じる場合、映画というひとつの仮想の社会の中で、役者は、役柄という仮面をつけることになる。それを演じなければならない。もし、それが出来なければ、その役から降ろされることになる。清純な女優が、濡れ役に抜擢されることもある。女優は、それを受けたら、その濡れ役を演じなければならない。それは、その映画の仮想の社会の中で、濡れ役の女優はひとつの個として扱われることになる。そこに、濡れ役の個と映画の世界の中での界面を持つことになるからである。現実の内面はそうではない。しかし、人に接する役としては、娼婦にならなければならない。それは普通できない。それが出来る女優だからそれなりの価値をもつ。

 基本的に、仕事づくりも同じことである。自分の素の性格をそのままだしてもいいのは、その素の性質が、そのまま価値を持つ場合である。その人のあるがままの個性が、ある価値をもち、しかも、それで評価されれば、何も役づくりをする必要もない。適材適所に人が配置されて、その人の素がそのまま表現できる場であり、しかもその素がそのまま評価につながれば、その人にとってこれ以上の幸せはないはずである。

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2008年06月24日

車はエンジンか、それともタイヤか、費用対効果の原則からみて。

 車の走行距離が42000キロに、なったのと、前輪のタイヤに小さなビスが刺さっているのを発見したので、これは限界だと思い、タイヤを交換した。たまたま、家の近くにタイヤの専門店があったので、そこに、立ち寄った。昔、高速道路に落ちていた石を踏みつけ、パンクを経験したことがあるので、タイヤに関しては、少し神経質なところがある。磨り減ったタイヤをみると、危ないなと感じる。これで、高速道路を走ったり、雨の道を高速で走ったら、スリップするはずである。今までの感覚から、タイヤは新品か、それとも磨耗消耗して、タイヤのゴムが減る、その視点しかなかった。タイヤは同じ、車の車体にあうサイズか年数という感覚しかなかった。車は25年以上乗っているが、今まで、それ以上、突っ込んだ感覚をもったことはなかった。

 車には、軽自動車から最高級セダンまである。100万から1000万まである。大まかに言って、排気量、大きさ、内装で価格帯は決まっているようである。それと同じようにタイヤにも、色々な種類がある。大体4-5種類はある。もちろん、それの差は、価格である。4本セットであっても、安いのでは2万、高くても7万ぐらいの範囲である。タイヤメーカーも、タイヤだけを売っているわけではない。その材質を研究し、製造し、それに類したものを利用して他のものも作っている。私は、今までは、車はエンジンだろうと考えていた。会社自身では、機械や装置をも扱っているし、高圧発生部の動力もある程度、扱っている関係で、メカには興味があるからである。

 安全を考えて、7万のタイヤを購入して、1800ccのセダンの車につけてもらった。取り替えたものは、同じタイヤメーカーの車を購入したときについていた標準のタイヤである。新車で乗ったときの感覚、以前乗っていた車で、タイヤを交換して乗ったときの感覚、それは、今でも覚えている。当然に、ある程度は、新品のタイヤであるので、いいだろうと、想像していた。しかし、いざ、走ってみると、あれ、と一瞬感じたのである。なんだ、これは、もっと、驚いたのは、加速である。それと、走行時の車体の安定性なのである。今まで、車はエンジンだと、考えていた私の考えは一変した。車はタイヤである。

 走りよさと車の静粛性は、高級車並みになったのである。購入時、渡されたタイヤのカタログをじっくりと読んだ。詳細なことは、わからない。テクニカルタームで書かれていたのと、漠然とした概念で書かれていたので、それがどういう根拠でそうしたのかは、分かるはずがなかった。企業のノウハウだと感じた。しかし、25年以上、車を運転してタイヤこそが車の命であるとは、実感できていなかった。高速でパンクを経験しているので、安全面に関してはタイヤは重要であるとは認識していた。確かに、タイヤメーカーは、あえてそこまで、ユーザーに主張できない。タイヤメーカーの一番のお客さんは、自動車メーカーである。それを公言したら、高級車が売れなくなるからである。
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2008年06月23日

「せんとくん」に「まんとくん」に第三の「なーむくん」登場、3人で躍らせたら

 先週、新聞やネットを見て、またまたびっくりしたことがある。「まんとくん」が出てきた時は、やっぱりと思ったが、またまた、第三のマスコットキャラクター「なーむくん」が出てきたからである。奈良市の寺院などで作る親睦団体「南都二六会」(橋本十輪院住職会長)が、平城遷都1300年祭のマスコットとして、独自のキャラ「なーむくん」を発表したのである。「なーむくん」を見れば、これは聖徳太子をキャラにしたと誰でもわかる。これで、三つのマスコットが出揃った感じである。ひとつは、官僚、役所、お上がつくった「せんとくん」、ひとつは、商業感覚のある民間がつくった「まんとくん」、そして、奈良の仏教団体が作り上げた「なーむくん」である。いかにも、古の町、奈良らしいキャラクターたちである。

 三人よれば、文殊の知恵になればいいのだが、それぞれが、強いキャラをもっているため、三人寄ればかしましくなるのは、必定である。何かあるたびに、おれが、おれがと出てくると感じる。とくに、主催者側は、あくまでも公式なキャラは、「せんとくん」と主張し、何かにつけてこれは正式なイベントであるといい、ことあるたびに官僚的に「せんとくん」を押し付けるはずである。特に、「なーむくん」は、聖徳太子であるため、平城遷都との関連がよくわからないと、いうはずである。「なーむくん」を南都二六会が発表した理由は、どうしても「仏様に角が生えているようなキャラは受け入れられない」と思っているからである。道理である。

 外部から眺めたら、どうでもいいように感じるが、それぞれの当事者にたってみれば、そうとはいえないのであろう。私は、大阪に住んでいるため、なにかあれば、ぶらりと京都や奈良に遊びに行く。町並みを散策したり古寺巡礼をしたりしている。「なーむくん」を発表した南都二六会の所属する寺院は、ほとんど回っている。確かに、奈良町や奈良に位置する寺院は、京都にある寺院とは趣がちがう。京都のような商業化の波は受けていない。いまでも、昔ながらの風情を残している。それを考えると、「仏様に角がはえているようなキャラはうけいれられない」と思うのは、自然かもしれない。そういう意味では、京都の方が激しいはずである。もし、平城京ではなく、これが平安京に関してのイベントであり、奈良でなく、京都が今回のような仏様に角が生えているようなキャラを発表したら、とんでもないことが起きたはずである。それよりも、恐ろしくて出せなかったはずである。京都の方が、奈良よりもつよく自己主張をするからである。


なーむくん

「なーむくん」







manto

「まんとくん」





仏様





有名な「せんとくん」


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2008年06月20日

地球温暖化の被害が局所的に重なれば

 地球は、ひとつの孤立した部屋である。月は孤立した部屋ではない。月の表面は、直接果てしない宇宙空間と接している。地球には、なぜか水があり、それが、水蒸気として、地球の表面を覆っている。それが大気と海との循環になっている。地表は、温められて、水は蒸発し、上昇する。当然に、上空に行けば、圧力はさがり、温度も下がる。暖められた水蒸気は、上空で冷え水滴になり、くもとなり、ある一定の値を超えれば、重力で下に落ちていく。地表が冷たければ、雪になり、暖かければ、雨になる。あたりまえの気象現象である。

 地震は、避けることができない。人為的な操作で、地震が発生するとは思えない。地震発生と人間の文明とは、今のところ、因果関係はない。あきらかに、人為的に巨大地震発生を制御することは不可能である。しかし、異常気象は、地球温暖化と無関係ではない。昔から異常気象はあったが、それが今後は、局所的、ゲリラ的、巨大化するのは間違いない。

 地球温暖化が加速するのは、温室効果ガスの量が増えるからである。シベリアの永久凍土の中には、巨大なメタンガスが封印されている。それが、地球温暖化で溶けて、大気中に放出されている。CO2もメタンガスも水蒸気も温室効果ガスである。もちろん、大気中にそれはある。あってあたりまえ、ないと困ることになる。太陽から届く光のエネルギーが地面に吸収され、それが、夜、赤外線(熱)の形で、放射される。温室効果ガスがこの熱を吸収し、再び、大気にもどしているのである。それがあるため、地球の平均気温が15度に保持されている。そのために水が液体として、地球上にある。もし、温室効果ガスがなければ、マイナス18度になり、水は、液体として存在できない。すべてが、氷の世界になってしまう。CO2やメタン等の温室効果ガスがどんどん放出されている。地球の温度がどんどん上がってくる。太陽からのエネルギーは、ほぼ一定である。人間が増加して、文明が発達すれば、どんどん、温室効果ガスは出てくる。当然に、水蒸気も増えてくる。密閉した空間で、ストーブをたけば、内部の温度はどんどん上がってくる。それと同じである。

 それが、平均化されていればいい。均一な状態であれば、変化はない。何も起きない。そして、エネルギーは保存される。この地球にあるものは、この地球にあるエネルギーと太陽から与えられるエネルギーの総和である。地球上にあるものは、エネルギーは形をかえるだけで、地球の外に出て行かない限り、地球がうまれてから、今までの間のエネルギー量は、変化がない。それがエネルギー保存の法則である。しかし、太陽からのエネルギーは、常に加え続けられている。入る量と出る量が同じでなければ、いずれ、地球はパンクする。もちろん、太陽は膨張している。その熱量も増えている。温室効果ガスが同じであっても、何万年、何億年の単位で時間をみれば、どこかで、地球はパンクする。

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2008年06月19日

方丈記の一節より、やはり、生きてごらん。

 人の一生は、昔も今もかわらない。はかないものである。私の好きな一節に、このような文章がある。中学校の古文で暗唱させられた方丈記の書き出しである。
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
 よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。
 世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
 (中略)
 あしたに死し、ゆふべに生きるならい、ただ水の泡にぞ似たりける。
 知らず、生まれ死ぬる人、いずかたより来りて、いずかたへか去る。
 又知らず、かりのやどり、誰が為に心を悩まし、何によりてか目をよろこばしむる。」

 まったく、そのとおりである。鴨長明がみた世界、そのままが、今でも生きている。それが現実である。結局は、人の一生は、水の中の泡とおなじ、最後には、力尽きて、泡ははじける。そとから取り込んだ空気は、そとの空気へとかえり。内から出てきた空気は、元あった水の中にかえる。

 マクロ的にみれば、そのとおり、人の一生を数秒で見れば、行く川のながれに浮ぶ泡と同じである。流体が流れれば、速度差が生まれる。その速度差によって、圧力差が生まれ、水の中に隠れていた気体が現れる。そして、流れがとまれば、気体は、元の水の中に隠れる。水道ホースをちょろちょろ流した状態では、泡はでない。ホースが一定、水の温度が一定なら、ある水の速度が一定の値を超えると、泡がでる。乱流になるからである。乱れた流れだからである。その乱れの状態が人の喜怒哀楽の感情に類似する。だから、乱れも乱れすぎると心の嵐になり、自分が壊れてしまう。

 これは、激しい無常観を伴う。生きるもの、いずれは死ぬ。だから、何をやっても意味がない。いずれ、数十億年後、地球は太陽に飲み込まれる。気の遠くなる時間であるが、その日は確実にやってくる。人の一生もいつか必ず、だれでも死ぬその日がくる。だから、何をやっても同じである。虚無的にならざるを得ない。人生の意味もない。生きることの意味もない。そういう考えも出てくる。方丈記とおなじように、生まれ死ぬる人、いずかたより来りて、いずかたへか去るになる。確かに、そのとおりである。生きていれば、確かに誰が為に心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむるなのである。それもそのとおりである。色即是空の世界、そのままなのである。これらを否定するつもりはない。そのとおりだからである。

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2008年06月18日

ナノテクノロジーとエコロジーとの矛盾、乱れをどう制御するか。歌の中に答えはある。

 ハイテクノロジーのジェット機ボーイング777でも、世界の最先端技術の結晶のスペースシャトルでも、悪天候の場合、絶対に飛ばない。なぜなら、制御が出来ないからである。完璧な数理的なロジックで構成されているコンピューターでも、悪天候、空気中の乱れを制御できないからである。それは、激しい乱れの中で、機体を支えられないからである。人も、怒りや憎しみに感情が踊らされたら、自制心の強い人でも、その感情の乱れに作用されて、傷害事件や殺人事件を起こす場合がある。音楽でも、不協和音、つまり、ノイズを強い音圧で聞かされたら、人は狂ってしまう。逃げ出すか、音を切るかするはずである。それが出来なければ、自分の命を自分で止め、その乱れから逃避するはずである。それほど、制御不能な乱れは、恐ろしいものなのである。

 乱れも複雑系での重なりである。ノイズを波形で測れば、滅茶苦茶な波形がでる。しかし、それも、ひとつひとつ、高速フーリエ変換をして、周波数とスペクタル(エネルギー)でみれば、おびただしい、周波数とスペクタルが、瞬間、瞬間、不規則に変化しているのがわかる。つまり、無限に近い(膨大な数の)波(正弦波)が、時間に対して、エネルギーを変化させている(振幅と波長)のが分かる。それが、無限に近い数の一つ一つの集合体がそこにあるのである。天気で見れば、嵐である。流体(水)の中で、みれば、コップの中の嵐である。それは、流体の動きなのである。ハイテクノロジーの結晶である、スリーセブンは、嵐では飛ばない。しかし、そのハイテクノロジーの結晶である、部品(素材)は、なんと、その流体や空体の中の嵐の中で作っているのである。それは、何を意味しているのか、そのノイズの中のほんの数パーセントの力を微粒化に使っているのである。そして、後は、無駄なエネルギーとして、排出しているのである。それは、あきらかにエコロジーに反しているのである。人は、その矛盾に気づかない。スリーセブンは、嵐の中は飛ばない。なぜなら、嵐の中では、制御がきかないからである。制御のないところでは、社会でいえば、秩序のない所は、危険だからである。

 ナノテクノロジーとは、物を細かくすることの総称である。物を細かくするには、それだけの力が必要である。誰でも経験的に分かる。ガラス瓶を細かくわるには、思い切って、硬い壁にたたきつければいいのである。基本的に、ほとんどの機械(装置)は、この考え方で作られている。しかし、流体の中での微粒化、乳化、湿式粉砕、分散というものを、このやり方で、強い力で処理をすれば、間違いなくノイズが発生する。音がすることは、空気が発生しそれが取り込まれているのである。専門的な話をしても意味がない。とにかく、その乱れが生じているのは事実である。乱れを作るにも、エネルギーが必要である。もちろん、微粒化に必要なエネルギーもいる。その中には、化学的なエネルギーと物理的なエネルギーがある。ナノテクノロジーにとって、必要なのは、微粒化のためのエネルギーである。微粒化に有効なエネルギー=(化学的なエネルギー+物理的なエネルギー)−(失われた微粒化以外に使われたエネルギー)なのである。真のエコロジーとは、その微粒化以外に使われたエネルギーを限りなく、ゼロに近づけることをいうのである。
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2008年06月17日

シンガーソングライターへの道 その1

 人生も、ちょっとしたきっかけで、ひとつの流れが変わるものである。予想もしていなかったことが、起こることもある。人生は短いようで長く、長いようで短い。無為にすごせば、時間はやはりそれなりに過ぎてしまう。少年の頃、考えていた人生の時間は、膨張していく宇宙のような感覚だった。心と体が成長するにすれて、まだ、霧の中に人生の答えが混沌としてあるように感じていた。しかし、成長がとまり、結婚し、子供を大きく育て、それなりに安定すると、膨張していた世界がとまり、どこかで、収縮しだすように感じる。そう、どこかで、自分の命の終わりを感じ始めるのである。自分というひとつの小宇宙も、この世の宇宙もきっと、感覚的には、膨張と収縮を繰り返し、輪廻転生を繰り返していくものだと、感じるのである。

 ちょっとしたきっかけから、自分で歌をつくることになった。今の仕事の延長線上に、歌つくりが乗ってきた。このブログも、ひとつの仕事の延長線上にあるから、ひとつの企業の代表として、そして、ひとりの個人として、このブログを書くこともできるのである。もちろん、私が、どこかの企業に勤めていれば、そんなことは許されることではないし、まして、歌をつくることと仕事との整合性など、普通の経営者なら理解はしない。それが、可能なのは、自分で作り上げた技術で、自分の責任で、会社を立ち上げ、運営しているからである。だから、私自身がひとつの商品としての価値をもつからである。そして、新聞でも報道されたが、こんど、大手の総合商社と包括事業締結を結んだ。私の中の経験や技術を部下に伝承していかなければならない。技術に関しては、経験が主になる。私は、ただ、若者たちの動きを、失敗しないように、見つめてやればいいのである。子育てとおなじである。間違っていたらしかってやればいい。そうして、若者たちも私が若いとき企業の先輩に育てられたと同じように、悩み、苦しみ、そしてうまくいけば喜びながら、成長していくことになる。

 数年前、とある大手会社の技術者の人が会社に来た。それまで、私は自分の技術を積極的には公にしていなかった。それまで、駆け込み寺的に会社を運営してきた。それなりに食べていけてたからである。他でうまくいかなかったものが、私が作り上げた技術や装置で、うまくいくようになった。ブレイクスルーしたのである。その会社も、なんとかうまくいった。そのとき、その技術の人が私に言ったのである。「この技術は世に広めなければいけない。会社のことを考えれば、黙っていてくれたほうがありがたい。しかし、私と同じように、苦しんでいる技術者がいっぱいいるのです。」私はその言葉に打たれた。そして数ヵ月後、別の会社の技術者がここに訪ねてきた。まったく、同じ事を、同じように、私にいったのである。私は、そこから考え方を一変させた。小乗的な考えをすてて、大乗的にすすむことに決めたのである。その技術者の人の縁で、総合商社の技術営業の人を紹介してもらった。その人の縁で、トップまで紹介してもらった。私は、その商社のトップの人たちに自分の考え方を伝えた。トップの人たちは、私に理解を示してくれた。私は、この人たちなら、信頼できると直感した。考え方や技術を広め、将来くる大きなビジネスに備えるためには、この方法しかないと思ったのである。親鸞聖人が、法然上人に関して、言った言葉を思い出した。「法然上人を信頼する。たとえ、それが嘘であっても、法然上人ならだまされてもいい」正確かどうかはわからない、そんなイメージの言葉だった。

 ブログでも書いたが、世の中は、言葉だけでは動かない。だから、声を発したくなったのである。考えや思いを歌に載せて、どうしても伝えたくなったのである。技術に関して、装置に関しては、現象をみて、複雑系の中で、自分を空にして、考えれば、大体のことは分かる。だから、色んな企業の人から相談を受ける。それは、短時間で、ひらめいてしまい、たいていのことはPCの中のデーターベースがあるから、それをあれこれいじくれば大体の解は見つかる。後は、社員にこうしろと指示すればそれで終わってしまうのである。そう、人生の終盤に、歌を歌うことをやるとは、まったく想定していなかった。自分で書いた詩に自分で曲をつくり、それを自分で、勇気をもって歌おうとしているのである。仕事の付き合いで、大阪芸大出の人たちとの関係はあった。ボイストレーニングもうけた。もちろん、曲まではなんとか作れても、それを編曲し、伴奏やミキシングはできない。音楽に従事したいと思っている人たちである。彼らも、なにかのきっかけがないと、うまくはいかない。そのきっかけをつくってやろうと思ったのである。そう、私一人であれば、どこかで、逃げることはできた。しかし、若者をひきづりこんだ関係上、後戻りはできなくなったのである。勇気をもって、前に進むしかないのである。

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nano3000xp at 11:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!
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