2008年07月

2008年07月31日

規制を撤廃すると、低価格化となり、日本企業は業績悪化する。エコで規制をかけろ。

 規制を撤廃し、市場を開放するほうがいいし、構造改革を断行するのが、正しいことだといった元総理大臣がいた。確かに、人間がいて、そこに、資源があって、エネルギーがあれば、消費と生産は、繰り返され、段々と人間社会は豊かになる。限りなく、社会は膨張すると考えるだろう。もし、それが、無限の世界であったり、社会が飽和に達するはるか以前の状態であれば、の話である。1000年前の状態であれば、ほとんど、問題はなし、自由は謳歌されるべきである。

 もしかしたら、小泉構造改革の5年間で、日本はとんでもないものを失ったのかもしれない。それが、いいことなのか、悪いことなのか、分からない。ある人にとってはいいだろうし、ある人にとっては良くないことだろう。問題は、日本全体が平均してよくなったか、どうかであり、仮に一時的に良くなったとしても、それが原因で、没落の道へ行くのなら、それは、いいことだとはいえない。規制が撤廃される。光速ネットワークが張り巡らされる。非効率の官僚の構造改革は厳しく断行すべきだが、それが出来ていないのが現状である。

 規制が撤廃されると、どうなるか、必ず、平均化する。規制とは、分けることである。水槽を二つに仕切る。右に高い温度の水、左に低い温度の水をいれとくとする。高い温度の水はほっといたら、冷めてくる。だから、冷めないように、がんばって、高い温度を維持しようとする。高い温度が維持できるのは、仕切りがあるからである。では、その仕切りを外せば、温度は高いほうから低いほうにながれ、水槽は、ある温度になる。均質化したためである。いくら、高性能のものを作ったとしても、いくらいい技術をつくったとしても、いくら、すばらしいものを作ったとしても、規制がなければ、技術は人の移動を通して水面下で移転される。ヘッドハンテングである。日本で作るよりも、台湾や中国で作ったほうがいい、パソコンも性能がほとんど変わらないのなら、5万以下の方を選ぶ。そう、安くていいものは必ず売れるという法則が成り立つ世界である。携帯電話もそうだし、テレビもビデオもあらゆる規制のない自由な商品はみなそうである。

 高性能、高品質になる。それが技術だと錯覚していた。それは、どこまでもつづくものと錯覚していた。確かに、昔のパソコンでは、立ち上げるまでに数分かかった。処理速度も遅かった。しかし、どこかで、飽和に達した。それ以上の能力は不要だからである。人間の感覚がそれを識別することが出来ない領域に達したからである。そこを通過すれば、後は価格競争である。日本で作る必要なない。同じ機能なら、同じ性能なら、同じメンテナンス性なら、10万の商品よりも5万の商品の方がいいはずである。そして、次に狙われるのは、車である。日本の車がいいのは、周動部回りの技術がすばらしいからである。エンジンを含め、そのまわり、ベアリング、ギアー、とにかく、力を伝達するパーツがいいからである。しかし、燃料電池や太陽光やバッテリー技術が大幅に革命的に伸びれば、まちがいなく、ガソリンエンジンから、モーターへと駆動部は変わる。日本の大手重電メーカーが、車を作ることも可能である。今、世界でNO.1の日本の車会社は、栄枯盛衰の理のように、間違いなく凋落が起こり始める。
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2008年07月30日

無責任、無関心、無干渉の時代、愛知県知床中学教師、18歳の卒業生に刺される。

 時は、まさに、無責任、無関心、無干渉の時代の真最中である。そんな中で、突然、昼間の中学校の一室に、クラブ活動の指導をしていた教師を、18歳になる卒業生がナイフで刺して、怪我を負わせたのである。どうやら、その犯人の供述としては、4-5年前に担当だったその教諭に対しての恨みが原因だというのである。犯人が中学2年のときの担任が、怪我を負わされた神谷教諭だったのである。

 この青年は、2005年3月に中学を卒業し、その後、高校へ進学した。すぐに、引きこもりが原因で、退学し、フリーターとして、今まで生きていたことになる。どうやら、この青年は、自分の人生がうまくいかないのは、この神谷教諭とであったためだと、考えたのだろう。そう自分を追い詰めていくと、この神谷教諭に対しての憎しみが生まれたはずである。そして、犯行に及んだ。もちろん、この犯人は、神谷教諭に対して、怪我を負わせてやるぐらいのつもりであって、殺害しようとする強い殺意はなかったであろう。もし、殺害しよう、神谷教諭を殺してやろうという強い目的意識があれば、別なところで別な凶器をもって、神谷教諭を狙うからである。

 もちろん、この犯人の犯罪行為自体は、許されることではない。傷害罪等で起訴され、それなりに、社会的な制裁を受けることになるだろう。しかし、私は、もっとも驚いているのは、この犯人が今回の事件のきっかけとなった時期が、犯人が中学校2年だった点である。先生と生徒の関係である。何かの理由でしかることもある。問答の弾みで、少年が神谷教諭に殴りかかることもあったであろう。それから、4−5年も経過しているのである。20代の4-5年の変化もたいしたこともない。30代、40代など、変化などほとんどない。体が老化していくだけで、精神的な成長などない。しかし、男も女も13-14歳から18歳までの4-5年の変化は、その人の人生の中で、最大の変化率である。ある意味、その5年の間で、子供から大人に変わるからである。本来、誰でもが、精神的にも肉体的にも最大な変化率をもつこの時期に、この犯人は、ずっとおなじところにいたということになる。この犯人は、その間、だれとも、心を震わすような出会いがなかったことになる。難しい言葉を使うが、この犯人と相互作用を起こす人物や出来事が、ほとんどなかった。この犯人が、自分の心と過去を振り返ると、誰ともあたることがなく、5年前に相互作用をもったこの神谷教諭が出てきたことになる。これほど、寂しいことはない。

 では、この神谷教諭との出会いにより、何か特別なインパクトをもった事件がこの少年の中に発生したのだろうか、それもないのである。ごく当たり前の日常的時間がこの神谷教諭とこの少年の間にも流れていただけである。それも、4-5年の前の話である。たぶん、神谷教諭は、一瞬、この犯人が通り魔だと、思ったに違いない。生徒を守らなければならないと、考えたかもしれない。それよりも、自分の命を守らなければならないと感じたかもしれない。もし、私が同じような状況にいれば、この犯人をみて、誰だとおもうだろう、直ぐに、ぴんと来れば、その人とどんな相互作用を過去にもったかを想起するだろう、それが分かれば、その犯人に対しての言葉がでるはずである。すぐに、わからなくても、自分の記憶の中で、それらしき人を探すだろう、そして、それが思い出せなければ、最後にこれは通り魔と感じ、逃げることを考えるだろう。
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2008年07月29日

ゴミ屋敷化した市場経済と人間社会 

 アメリカの財政赤字も過去最大となる。日本の財政も悪化の一途である。しかし、アメリカも日本も、国家が倒産することはない。もちろん、企業は、倒産する。しかし、今まで、国家が倒産したためしがない。国家がつぶれるときは、植民地化されたからである。国家の主権が実質的に他国に譲渡されるからである。1945年の第二次大戦終結後、国家のありようが大幅に変わった。侵略することが出来なくなったからである。経済的に、民間企業が多国籍企業として他国に入ったとしても、そこで、成り立つのは、利権だけであり、政権が倒れたり、事業の必要性がなくなれば、その関係も崩壊する。アメリカの企業集団も日本の財閥集団も、一時、開発途上国に対して、戦前の支配関係に類似したものを作ったかもしれない。しかし、経時的に見て、驕れる平家久しからずである。どこかで、その利権も代が変われば雲散霧消していく運命であった。

 経済も政治も、基本は、地球が有限の世界であることを忘れていることである。物を作り出していけば、需要と供給のバランスだけで、永遠に社会は繁栄することになってしまう。しかし、これは、ありえない話である。

 ぐうたらな男がいたとしよう。独身である。ただ、この男は仕事が出来る。意外と所得が高いとしよう。いい、マンションをもっていたとしよう。最初のうちは、掃除も洗濯も食事もゴミだしもきちんとしたとしよう。しかし、だんだんとルーズになってくる。なぜなら、この男、仕事をしなければ、食べていけないからである。世の中には、二つの決まりがある。エネルギー保存の法則(熱力学第一法則)とエントロピー増大の法則(熱力学第二法則)である。この男は、とにかく、食べるためには、仕事をしなければいけない。疲れて帰ってくる。家に帰ってまでも、仕事はしたくない。当たり前の話である。だから、だんだんと、流し台に食い散らかした食器等が乱雑にならぶ、コンビニの袋に食べ残しがつまってくる。大体、社会人の男の部屋とは、こんなものである。だんだんと足の踏み場もなくなる。ゴミ屋敷になってくる。

 なぜか、人間には、限界があるからである。一日働ける仕事量が決まっているからである。それ以上のことは、できない。この男が、一日でやる仕事量の総和は、一定である。それが、エネルギー保存の法則である。そして、何もしなければ、物事は乱雑さの方向へとすすむ。何もしなければ、ゴミ屋敷になる。エントロピー増大の法則である。ゴミ屋敷にしないようにするには、この男は、片付けと掃除という仕事をしなければならないのである。もし、しなければ、ゴミは増えて、部屋の中に異臭が漂い、そして虫が湧き出し、終いには、その中で生きることができないような腐乱な場所になる。男の一日の仕事量はきまっている。腐乱した場所で生活できないのであれば、その男は片付けや掃除をする必要がある。毎日、ある一定時間の掃除と片付けが必須となる。当然に、その男が外にでて仕事する量は、減ることになる。ある意味、生産量が落ちることになる。
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2008年07月28日

肥満と喫煙を抑止すること(ダイエットと禁煙)が、現代の養生訓である。

 肥満と喫煙を自制することは、結局精神力を鍛えることと同じである。“何故、太るか”は、食べるからである。消費に対する摂取が過多だからである。人間は、食べなければ餓死する。直物のように、光合成によって、生きることは出来ない。自らの手足を使い、人間にとって、毒でない、害のないものを摂取するから、生きることが出来るのである。肥満を防止するのは、理論的には非常に簡単である。食べ過ぎないことである。したがって、肥満を防止するのは、食べた分、どのような形でもいいから、消費すればいいのである。人間には、年齢と社会的な環境とによって、それぞれの基礎代謝が決まっている。それは、スポーツ選手と事務員とストレスを受けやすい人では、値が違う。同じカロリーを摂取しても、基礎代謝の高い人は、それだけ消費しやすいので、肥満にはなりづらい。10代や20代なら、基礎代謝のための体つくりは可能だろう、消費しやすい運動家タイプを作るのであれば、それなりに訓練すればその体はできる。しかし、問題は、その基礎代謝も、年齢や社会的な環境によって、変化するのである。運動家タイプの人であっても、30代後半から40代になれば、社会的な地位も上がってくる。肉体を消費することができずに、暴飲暴食と睡眠不足、それに過度の喫煙が加われば、間違いなく、肥満が生じてくる。健康診断でも、もともと、体が強いため、なかなか顕在化しない。それに甘えて、放置すれば、どこかで、一気に数値が悪くなる。それが、気に入らない上司であったり、経営者であったりしたら、ほくそ笑んで待っていればいい。そのうち、病に倒れて、再起不能になるからである。

 結局、自分の健康管理は、自分でするしかない。会社での健康診断、地域医療での健康促進プログラム、いろいろなものがある。しかし、人間の細胞の活性化の期間は、約28日である。化粧品でも薬用化粧品でも、その効果が出てくるには、約28日、かかるのはそのためである。即効的に効くのは、医薬品である。しかし、副作用が伴う。だから、医者の処方箋や医者の管理が必要なのである。薬局でうっている風邪薬と医者が処方する風邪薬は、その性質が違うのである。病院は、あくまで、今までと違う症状がでてきて、社会的や日常的な活動が困難になったとき、治療をうける場である。その症状が、急激に悪化したとき、人は救急車をよび、緊急医療を受ける。当たり前の話である。もちろん、病気には個人差がある。何も悪いことをしていないのに、ウイルスに感染する場合もある。それとは異なり、病気を自制できたにも関らず、それを放置し、病になる場合がある。それが、肥満と喫煙に関るものである。もちろん、肥満が悪いわけではない、人によって、その脂肪のつき方は違うからである。太っていても、内臓に脂肪がついていない人もいれば、やせていても、内臓に脂肪がついている(脂肪肝)人もいる。

 人の生き方に、いいもわるいもない。生まれた環境がよく、何不自由なく生活でき、それほど、働かなくとも、資金がある人も世の中にはいる。美味しいものを食べ、上質のアルコールをのみ、それに、ぶかぶかとタバコをすう。あえて、働かなくても、資金がある。一年、二年、まず、慣性の法則が働き、動きたがらないはずである。重たいものほど、動かすのに、外部からの力がより必要だからである。血液はどろどろになる。喫煙で血管は収縮する。高血圧で倒れるか、糖尿で倒れるか、心臓で倒れるか、脳血栓で倒れるか、いずれにしても、成人病で、命が早くなくなるのは間違いない。そういう人生もいいとわりきり、そうなったら、すっぱと、自らの人生を自らで終止符を打つといって、それを実行できれば最高なのだが。しかし、世の中、そういう人はほとんどいないのが、現状である。そうなったら、じたばたするのである。

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2008年07月25日

たばこは、一本1000円でもいいのでは?

 私もずっとタバコを吸ってきた。時々は、禁煙キャンペーン等をみて、やめようかなと思ったことはあったが、出来ても、数時間でギブアップした。特に、健康診断を受けても若いときは体に異常はなかったし、家系的にも癌発生はなかったので、20代や30代半ばまでは、気持ちよく喫煙をしていた。その頃はまだ、飛行機も全面禁煙ではなかったので、愛煙家としては、まだ居心地がよかった。特に、飛行機の中でアルコールを飲みながら、喫煙するほど、楽しいものはなかった。

 急激にたばこに対して、制限が掛りだしたのは、ここ5年ぐらいである。それまでは、ある程度、どこでも吸えたのが、5年ぐらいまえからすえなくなった。企業でも、応接間に灰皿を置いている企業は少なくなった。どこの企業でも、部屋の隅っこに喫煙室をもうけ、その中に空気清浄機をつけている。飛行場の喫煙室と同じようなものである。アメリカでは、飛行場の内部にも喫煙室がないところがある。どうしても、吸いたければ、外に出て、吸えということである。もはや、欧米では、たばこを吸う人は、人間ではないような扱いである。タバコを吸う人は野蛮人であると、そういう人も欧米の人にはいる。

 まず、100人の医者に、たばこは体に害はありますかと尋ねれば、ほぼ全員が害があるという。色々な医者にたばこを吸ってますかと尋ねたが、大体、昔は吸っていたといい、今は禁煙していると答える人が多い。5年―10年まえに禁煙したといっている医者が多かった。たばこが、なぜ、良くないかといえば、習慣性、依存性があるからである。もし、習慣性がなければ、簡単に止められるからである。吸わなければ、禁断症状がでるから、つらいのである。

 仕事の能率を考えると、仮に、仕事場の机から、喫煙室まで行き、そこで、たばこを一本すって、もどってくるまで、5分掛るとしよう。もし、一日20本吸ったと考えれば、100分、ロスしたことになる。8時間労働中、正味、労働している時間は、昼食時間を除けば、5時間ぐらいでしかない。これで、AさんとBさんとが二人いて、Aさんは喫煙、Bさんは禁煙だとすれば、AさんとBさんとの給料に差をつけざるを得ないことになる。新人であれば、会社としては投資である。回収するまでには、ある程度の年数が必要である。あきらかに、喫煙することと仕事との能率化や業務結果に対しての相関が認められなければ、通常、喫煙者と禁煙者との差別化が起きるのは当然かもしれない。今後の人事評価に加えられる可能性がある。

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2008年07月24日

通り魔殺人に対抗するためには、死者の魂、怨霊の考えを教えるべきです。

 通り魔殺人、無差別殺人が、後を絶たない。仕事が面白くない、世の中が嫌になった。それで、誰でもいいから、無差別に人を殺す。これは、まったく防ぎようがない。凶器は、100円で売っている包丁である。簡単に買える。それを取り締まることはほぼできない。誰が、通り魔かなど、分かるはずがない。通り魔予備軍だとしても、実際に、凶器を取り出して、犯行に及ばない限り、逮捕できない。警察官が、不審者として、すべての人に職務質問しようものなら、今であれば、すべての日本人が不審者として職務質問されてしまう。現実的にそれは、不可能なことである。

 日本人は、昔から、たたりをおそれた。死者には、魂があり、それが、安堵されないかぎり、災いを死者側から報復として施すものである。それがたたりである。目には目という、遺族と加害者の報復の論理ではなく、あくまで、殺人を犯した側への心理的なプレッシャーを与えることで、殺人行為そのものを抑止しようとしたものである。地獄の閻魔大王も基本的に類似したものである。悪いことをした奴は、死んだ後、それ以上の報復を受けるというものである。日本人は、たたりと地獄という死者の視点から現世のモラルを構築していったはずである。それが、現世の欲望とエゴの発散を抑止したはずである。そして、必殺仕事人等の仮想空間で見えるのは、表では処罰されない人を、裏社会から、死者のたたりとして、報復するものである。日本人には、そこに、悪いことをしてはいけないという、暗黙のモラルがあったのである。悪いことをしたやつは、地獄に落ちる。己の欲望で、人を殺したものは、死者のたたりをうける。一族郎党皆殺しを行ったものは、因果応報で、いつか同じ運命を受けるというものである。

 その強い倫理感が、昔の日本人にはあったのである。すくなくとも、私の年代の人にはその意識はあった。子供のときから、年配の人から教えられた。親からも教えられた。たたりがある。地獄に落ちる。それは、まさしく、先祖供養であり、死者の霊を慈しむものであった。夏休みの学校では、林間学校があり、肝試しがあった。墓を廻るものであった。霊感の強い人は、どこかで、強い霊を感じて、存在感を示したものである。そうすることで、死者の霊という仮想空間を通して、日本人は、一種独特の連帯感を死者の霊と共有したのである。

 もし、命を大切にするという考え方があれば、道に蟻が一匹いたとしても、その蟻の存在を気づけば、けっして、その蟻を踏みつけたりはしないはずである。普通は、人間は人間を殺すことは出来ないはずである。殺すことができるのは、人殺しの命令があるからである。人を殺さなければ、自分が殺される状況にあるとき、人は人を殺すことができるのである。それか、相手に対する激しい憎しみが生じたときである。相手の存在を消したいぐらいにつよい感情が起きたときである。それ以外には、どこかで、人殺しの衝動は抑止されるはずである。

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2008年07月23日

八王子駅ビル書店女学生、通り魔殺傷、悲劇は続く。

 22日の午後9時40分、そろそろ、書店も一日の営業を終了する時間である。郊外型の駅ビルである。八王子は、中央線、八高線、横浜線、私鉄の京王線が乗り入れているところである。東京近郊には、大きな大学もあり、八王子は、ひとつの学生の集結場所でもある。斉木愛(まな)さんは、アルバイトとして、9階の本屋で働いていた。本屋さんは、アルバイトの時給としては、高くもなく、低くもない。ただし、本が好きな人であれば、本屋さんでアルバイトをすることは、きっと楽しかったに違いない。ごく普通に生活し、ごく普通に友達と語り合い、ごく普通に恋愛も楽しんでいたはずである。

 22日の朝、いつものように、彼女は目覚めたはずである。大学は、夏休みかどうかはわからない。学生は、お小遣いをためたり、夏休みの旅行の支度金にする目的でこの時期アルバイトにいそしむはずである。何時から何時までのアルバイトだったかは分からない。すくなくとも、斉木さんは、その日の午前9時ごろには、起きていたはずである。運命とは、残酷である。その日の12時間後には、殺傷されているのである。こういう事件をみるにつれて、被害者の12時間前を考えてしまう。秋葉原で殺傷された女性もそうであったし、スイミングプールで撃ち殺された女性もそうだった。彼女たちがその日、起きて、殺傷されるまで、どんなことを考えていたのか、何か普段とは異なる雰囲気を感じていたのか、もし、死者の魂をよみがえらせることが可能なら、私は、彼女たちのその日の心の叫びを聞いてみたい。

 この犯人(菅野昭一容疑者)は、卑劣である。無差別に関係のない人を殺す犯人は、到底許すことはできない。特に、被害者の家族や関係者は、なおさらそう思うであろう。誰でもよかったといわれたら、この犯人に殺された斉木さんのご両親は、救われないはずである。いままで、大切に育て上げた娘さんをこの愚かな犯人によって、誰でも良かったといわれて、殺されたのであれば、どう気持ちの整理をつけたらいいのかと思うはずである。誰でもが、被害者と加害者を天秤に掛けてみる。被害者に同情はすれ、加害者には、ひとかけらの同情の気持ちも起きないはずである。仕事がおもしろくなかった。だれでも良かった。ただ人を殺したかったというのが動機であれば、自分を真っ先に殺すべきなのである。この犯人は卑劣である。人を殺害した後、凶器を置いて逃亡したのである。そして交番近くでうろうろしているところを職務質問され、逮捕されたのである。

 自分の気持ちがむしゃくしゃし、そのいたたまれないところから逃避したくて、犯行に及んだ。事件がおきれば、マスコミは、報道してくれる。自分の思いも伝えてもらえる。そして、自分は、生きることができる。一人だけの殺傷であれば、死刑にはならない。そして、抵抗することなく、捕まり、そして裁判のときに、情状酌量を狙って、反省と改悛の情を示せば、無期懲役になるはずである。死刑にならなければ、どこかで、出てこれる。ある意味、支援団体がつき、自分をまもってくれる。もし、そこまで計算にいれて、犯行に及んだとしたら、この犯人によって殺された斉木さんはまったく救われないはずである。
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2008年07月22日

川口市中学3年女子父親殺傷 何故、刺したのか?

 これも、答えなどないはずである。事件の前日の夜、その長女は父親と一緒にカレーを作った。母親がパートからもどってから、家族一緒にビデオ鑑賞をして就寝した。ごく普通のありふれた光景である。もちろん、その父親は、いつものように、自分の自宅で、家族と一緒に寝たのである。数時間後、自分の娘に殺されるとも気づかずに。そして、その夜、台所の包丁を取り出して、その長女は、父親を殺害した。それだけを描写すれば、不気味な短編小説の出だしになりそうである。父親を突発的に殺害するのであるから、そこに、何かの理由はあるはずである。しかし、決定的な動機など、周囲からは聞こえてこないのである。もちろん、起訴するにしても、人が死んでいるのである。責任能力が問われるはずである。この事件を立件するには、何故、父親を殺害したのかという動機が必要なのである。

 ある意味、この事件は非常に恐ろしい。たぶん、この家族には、特異性がないからである。どちらかといえば、エリート的な家族であろう。しかし、そういっても、特別な特権階級でもない。製薬会社に勤める46歳の父親であれば、それなりの年収は貰っていたはずである。世間に比べるとすこし、楽な生活をしていたごく普通の家族だと考えてもいい。この長女も、それなりにこの環境の中で成長したはずである。今の時代の15歳の女子であれば、昔の17−18歳ぐらいの体力はあるだろう。たぶん、多情多感な年頃で、精神的なものに憧れをもったはずである。オカルト的なものや、宗教的なものに対して、14歳ー15歳の少女は、ある程度興味をもつはずである。数年前から始まる初潮とが、切っても切れない関係にあるからである。たぶん、闇の中で始まる初潮、それが繰り返される。それは、だんだんと肉体が、生殖を受け入れられるようになるための過程でもある。しかし、ある一部の14-15歳の少女は、それを悪魔からのささやきと感じるかもしれない。たぶん、少女は、どこかで、内部から排出される血の色に、おぞましさを感じたのかもしれない。それだからといって、それが父親を殺す遠因になるとも思えない。

 娘が父親を殺した場合であれば、普通、父親が少女を肉体的に虐待したかどうかの明確な事実が見つかる。しかし、それがなければ、それは少女の複雑な心理から出てくる。突発的に、父親を殺したりはしないはずである。衝動的に何かをしでかす少女であれば、すでに、何かしらの事件を過去に起こしているはずである。殺人は、究極の犯罪である。したがって、相手を否定するための殺人と、自分を守ろうとして相手を殺す場合がある。この場合、この長女は、寝静まった頃、突然、起きだし、台所にあった包丁をもって、父親のところに行き、刺し殺したのである。それも暗がりの中で実行したのである。何かにとりつかれて犯行を犯したとしか思えない。もし、父親も、自分の娘に殺される予感がしたならば、何かしらの予防をうったはずである。それがないのであれば、突発的に何かに憑依されて殺人を実行したということになる。
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2008年07月18日

時間の不可逆性、科学は孤独死と人の終末医療を救えるか

 ふと、感じる。このままの状態が続けば、いずれ、社会はパンクするはずである。無秩序にエネルギーを放出していけば、激しいノイズの場で、地球は覆われ、その中でうごめく人の心も、無秩序に乱れ狂うはずである。確かに、PC(パーソナルコンピューター)が、出現してから、世界は変わった。それに、ネットワークがつながり、世界のひとつひとつのPCが連結された。それにより、世界はまた変わった。時のながれとその変化を視覚化すると、あきらかに、指数的に変化しているのが、感覚的にもわかる。去年の変化率がたとえば、2倍だとすれば、今年は4倍になるということである。もっと、長い年月で、地球を見ると、成長は、鼠算的には、行かない。どこかでパンクする。そうすると、この文明も、どこかでパンクすることが予想される。

 少子高齢化と地球温暖化がすすむ。年金や高齢者医療制度の躓きで、日本の未来は、限りなく暗い、このままの状態でいけば、日本は、非常に不平等な社会になるはずである。それを打破するには、科学を使うしかないと感じる。有機物の人間を、無機物で構成される機械で、補うことしかない。人間と人間とが、対応すれば、そこに必ず、心と心の対立が生じる。紛争が絶えないのは、エゴとエゴがぶつかるからである。介護で問題になるのも、人間が人間を介護するから、そこに、利他と自利との葛藤が介護する人の心に生じるからである。誰でも、年はとりたくはない。しかし、誰もが、命の終末を迎える。脳細胞が消滅していき、誰もが最後には認知症になる。少子高齢化で、最高齢者を高齢者で介護することが予想される。社会の中の個々の絆は、時間とともに、ばらばらになる。形あるものが、ばらばらになるのと同じである。エントロピーの法則が働くからである。それが、時間軸に対して機能するからである。時の不可逆性は、マクロの大きさで生きる人間にとって、受け入れざるを得ない真理でもある。そう、人は、いつか、必ず、土に帰るのである。太古、滅亡していった生物がいる。それらは、自分たち以外のもの(ツール)を作ることができなかったからである。人間のすばらしさは、ツール(もの)を作り出すことができる点なのである。

 人は、ものを作り出した。その基礎が科学である。物理や化学等の科学がそれを支えたのである。そして、いままでは、科学の進歩は人殺しのツールとして発展してきた。その最高峰にたつのが、原子爆弾である。本来は、科学の進歩は人殺しのツールであってはならないはずである。少子高齢化がすすみ、人は、自分の終末を自分で見つめることになる。残念ながら、これから、人は、孤独死にならざるをえない。一人ひとりが、自分の終末に自分で責任を持たなくてはならない時代が必ず到来する。そのとき、そばにいるのが、ロボットのはずである。人間が人間をいたわり介護する。美しい秩序があれば、そうであろう。しかし、介護ビジネスも基本的に、ビジネスであれば、営利を伴う。費用に対する効果でしかありえない。それを飛び越えて、心情的に介護することは、ビジネスとしてはありえない。子供が親を介護する。夫が妻を妻が夫を介護する。しかし、現実の場では、痛ましい介護疲れが出ている。認知症の子供や夫を親や妻が殺す。法律上は、殺人罪になってしまう。これから、ますますそういう時代が到来する。人が人であり、人の尊厳が守られ、人がその優しさに解き放たれ、美しい秩序がなりたつまで、残念ながら、時代は、この方向性に流れていく。認知症の夫や子供の命が尽きた。激しい寂しさと哀しさが起こる。しかし、残念ながら、心のどこかで、ほっとする気持ちが出るのもまた事実なのである。

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2008年07月17日

14歳の少年バスジャック事件、乱れた社会が若者を狂わす。

 たとえ、少年の心を分析しても、何かしらの答えなど出てこない。少年の動機は、「親にしかられ、嫌がらせしてやろうと思った」という単純なものである。14歳の中学生2年の少年である。すこし、感受性がつよいだけで、ごく普通の少年である。それが、ひとつのきっかけで、このような事件に発展してしまう。実に、恐ろしい時代になったものである。少年は、この時代の中で、この時代とともに生きてきた。この少年が物心ついたときは、携帯電話は当たり前、ネットも当たり前、日本経済や世界経済も市場経済の中、弱肉強食で生きてきた。ネットを見れば、モラルは崩壊し、少年が一番、関心を強く持つ性も、公開されている。有害サイトといえ、すこし気転のある少年なら、簡単にダウンロードし、CDに焼き付けているはずである。なまなましいリアルな映像が、みえるはずであるし、盗撮などの映像も簡単に見えてしまう。小学校の高学年から、友達の間で、今、大人たちが見ているAVなどを、見ているはずである。ネットの仮想の中では、すべてが、無秩序に重なっている。美しいものも、醜いものも、汚らしいもの、隠さなければならないもの、人間と人間社会のすべてが、無秩序に乱れて重なっているのである。現実の社会の中では、動かすのが難しい、犯罪を犯すのも、現実には難しい。しかし、仮想のネット社会の中では、殺人予告も、強迫も、現実社会で出来ないことが、簡単にできるのである。

 そして、この便利になった時代が、昔は出来なかったことを、意外と簡単に出来るようにしてしまうのである。もし、この14歳の少年が20年前や30年前にタイムスリップしたなら、ほぼ間違いなく、バスジャックなどしないはずであり、できなかったはずである。なぜなら、もともとの動機それ自身が抑圧されて消滅するからである。親がしかったのは、この少年が好きになった女性に近づいたからである。どんな関係かは分からない。この女性の親が、学校に相談し、学校から、その少年の親にその件で連絡したからである。少年の親がどういうふうにしかったか分からない。それが、多情多感に動く少年に、犯罪の垣根を越えさせてしまったのである。14歳である。今は、情報が過多であり、成長もはやい、今の14歳であれば、昔の16−17歳ぐらいの肉体は持っているはずである。異性に関心を持つのは当然であり、ネットを開けば、すべてが丸見えである。そして、少年は、自分を自制することが出来なくなったはずである。

 自我が目覚めているため、回りの目を気にする。昔は、秘めた思いは、なかなか告白などできない。好きになっても、その思いを伝えるには、手紙を書くか、電話をするかしかない、しかし、昔は、好きな女性の家に電話をしても、親が出てきて、取り次いでもらえない。自分の思いは手紙でしか、なりたたなかった。募る思いは、実ることがなかった。そして何かの機会で、手と手、体と体が触れ合う機会があった。その手や体の感触が、恋愛のひとつのエピローグとなったはずである。それが中学生か高校生であった。募る相手を抱きしめたい、募る相手と交じり合いたい、そう願う気持ちは、昔から変わらないはずである。実らない思いや性欲は、何かの形で昇華していったのである。そして、年齢があがり、社会的にも認められ、自分の行為に責任が持てる年齢になって、初めて、性の扉は自由に開いたのである。

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