2007年08月30日
東芝・シャープ、エコロジー広告合戦
8月29日と30日、一般紙の公告面に、東芝が「王子と地球のはなし」というタイトルででかでかと広告を打ったのである。連作が予想されるので、明日も打つかもしれないのである。誰が考えても、これは、明らかにシャープを意識しての広告だとわかるのである。連作で共通するものは、「この星のエネルギーとエコロジーのために」というキャッチコピーなのである。どこかの、広告代理店が企画発案したのだろうが、これを見ると、東芝は、明らかに、不採算部門を集約し、再生したことが、読み取れるのである。ある意味、この広告は、東芝が市場に発する決意と自信とある意味、宣戦布告とも読み取れるのである。眠れる獅子が蘇ろうとする意気込みが感じられるのである。これを受けて、シャープもだまってはいないはずなのである。アクオス(液晶)と太陽光エネルギーを主体とする、エコロジークラスを標榜するシャープが、これを受けて、さらに踏み込んだ、ID広告イメージをうってくるはずなのである。エコロジーを中核とした東と西の戦いが今まさに展開しようとしているのである。
東芝は、もともと、家電メーカーの東京電気と重電(モーター、発電所、機関車等)メーカーの芝浦製作所が昭和14年に合併して出来た東京芝浦電気という社名だったのである。愛称として、東芝として、通用していたのである。1984年に、正式に社名を東芝にしてイメージを統一したのである。したがって、東芝は、あくまでも重電と家電の二つの顔をもつ総合電気メーカーなのである。東芝と比較されるのが、日立製作所なのである。シャープは、シャープペンシルからスタートした会社なのである。1970年にシャープと社名を変更するまでは創業者の名前をとって、早川電気工業といわれていたのである。今日のシャープを築いたのは、明らかに1970年代以降の話なのである。シャープの製品の基礎は、当時世界で始めて作り上げた電卓からスタートしたのである。その中に組み入れられたソーラーシステム、電卓から派生した電子手帳、そしてビューカムの中に搭載された液晶技術、それらがシャープの主力製品になっていくのである。東芝とシャープは、実は裏と表の関係だったのである。それが、時代のめぐり合わせで、接点があってきたのである。殿様だった東芝が、疲弊していた間に、シャープやSONYが台頭してきて、逆転したのである。大きすぎて動けなかった東芝の株価は日立製作所の半分以下だったのである。それをスリム化し、半導体に特化させたのである。その勢いでデジタル家電の復活がなされたのである。しかも、重電を背負いながら、東芝は復活したのである。シャープは、太陽電池生産、世界一というプライドがあるのである。東芝は、原子力、火力、風力、タービン等の技術をもっているのである。電力供給を担っているプライドがあるのである。家電と、その上流にある技術を全面に押し出して、勝ち抜こうとしているのである。
東芝は、もともと、家電メーカーの東京電気と重電(モーター、発電所、機関車等)メーカーの芝浦製作所が昭和14年に合併して出来た東京芝浦電気という社名だったのである。愛称として、東芝として、通用していたのである。1984年に、正式に社名を東芝にしてイメージを統一したのである。したがって、東芝は、あくまでも重電と家電の二つの顔をもつ総合電気メーカーなのである。東芝と比較されるのが、日立製作所なのである。シャープは、シャープペンシルからスタートした会社なのである。1970年にシャープと社名を変更するまでは創業者の名前をとって、早川電気工業といわれていたのである。今日のシャープを築いたのは、明らかに1970年代以降の話なのである。シャープの製品の基礎は、当時世界で始めて作り上げた電卓からスタートしたのである。その中に組み入れられたソーラーシステム、電卓から派生した電子手帳、そしてビューカムの中に搭載された液晶技術、それらがシャープの主力製品になっていくのである。東芝とシャープは、実は裏と表の関係だったのである。それが、時代のめぐり合わせで、接点があってきたのである。殿様だった東芝が、疲弊していた間に、シャープやSONYが台頭してきて、逆転したのである。大きすぎて動けなかった東芝の株価は日立製作所の半分以下だったのである。それをスリム化し、半導体に特化させたのである。その勢いでデジタル家電の復活がなされたのである。しかも、重電を背負いながら、東芝は復活したのである。シャープは、太陽電池生産、世界一というプライドがあるのである。東芝は、原子力、火力、風力、タービン等の技術をもっているのである。電力供給を担っているプライドがあるのである。家電と、その上流にある技術を全面に押し出して、勝ち抜こうとしているのである。
とうとう、東芝がエコロジーを全面に押し出したのである。タブーといわれた、「原子力発電の安全な推進」を打ち出したのである。まさしく、これは、二律背反する問題なのである。地球温暖化とエネルギー需要の増加に対して、勇気をもって、原子力発電の安全な推進を全面にだしたのである。確かに、原子力発電は、不安定なウランに中性子をぶつけると核分裂が生じ、そのとき、莫大なエネルギーが放出されるのである。その熱エネルギーを利用して、水蒸気化させ、その力で蒸気タービンをまわすのである。火力発電と同じ構造なのである。問題は、放射能の問題なのである。人間のエゴが存在する限り、地球温暖化は止まらないはずなのである。暑くなれば、クーラーが必要になるのである。市場経済が続く限り、電力需要は増えるのである。原子力は、安全上、廃棄すべきであるが、この電力をカバーするには、原子力の絶対的な安全対策技術が必要になるのである。再生可能エネルギー、水力、風力、地熱、そしてシャープが得意とする太陽光発電も、補助は出来るかもしれないが、火力や原子力を置き換えるまでには、相当な時間とコストがかかるのである。
東芝の広告での王子さまは、「ほんとうにたいせつなことには、手間もかかるし、時間もかかる。でもやらなくちゃいけないんだよ。」とつぶやくのである。まさしく、エネルギーの安定供給と地球温暖化防止の両立こそ、エコロジーの基礎になるのである。夏休み終了時に連作として打ち出した東芝の戦略は、見事というしかないのである。それを地球内企業と規定し、それが東芝の責任だと、つよく、大衆に訴えたのである。
40.9度を観測してから、大衆の心理の中に、地球温暖化の恐怖がしみこんだのである。エコロジーを推進させなければならないという思いが、無意識にでも根付いたのである。そこに、「この星のエネルギーとエコロジーのために」というメッセージを出したのである。この電磁波的なメッセージは、シャープの内部を深く激震させるはずなのである。この東芝の方向性は、正しい以上、シャープは意地でもこれ以上のメッセージを出さざるをえなくなったのである。なぜなら、プラズマ・EL・液晶薄型テレビ、パソコン、携帯電話、ドキュメントに対しての地上デジタル放送に向けての家電メーカーの熾烈な勝ち残り競争が始まるからである。このエコロジー広告は、明らかに競争のプロローグなのである。
東芝、シャープが、エコロジー路線を打ち出した以上、各社の追随が始まるのである。エコロジーをいわない、または、何か具体的な数字目標や社会活動を行っていない企業は、取り残されるはずなのである。これは、ひとつの文化の転換期になるはずなのである。エコロジーを標榜する会社は、8月24日にフジテレビで放映したミヨリの森のような、童話的、聖観音菩薩的なイメージのある番組を支援するはずなのである。スポンサーとして協力することが、企業のイメージアップにつながるはずだからである。戦闘的、破壊的なイメージよりも、童話的、旅情的な方向へイメージ戦略が変わるはずなのである。日本家屋の縁側の陽だまりで座布団の上で眠る子犬や子猫のイメージのほうがエコロジーと合うはずなのである。緑あかるい森林の中に光がさす。その中を川がゆっくりとながれ、そこに、いわなが静かに泳ぐ映像の方が、エコロジーと合うのである。まさしく、宮崎駿監督のとなりのトトロやフジテレビ放映のミヨリの森のイメージが、エコロジーと符号するのである。宮沢賢治の世界が、エコロジーに重なるのである。地球温暖化を阻止するには、ひとりひとりのエゴを少なくしていかなければならないのである。社会は、暴力や破壊よりは、協調や柔和を好むはずなのである。フジテレビが力を入れて放映したミヨリの森の中に、忘れていた日本人の魂がやはりあるのである。その中の一本桜の精(聖観音菩薩像の仏の姿)の中に、受け継がれてきた命のともし火が隠されているのである。
東芝が強くエコロジーを打ち出したのである。たぶん、大衆は、目に見える具体的な数値としてのエコロジーの貢献度を企業に要求していくことになるのである。それにより、その商品や製品の差別化が行われるはずなのである。トヨタも単に、みどりの植林に取り組んでいます程度では、大衆は納得しないはずなのである。2兆円の利益がある会社がこの程度しか、できないのかというイメージを持つはずなのである。本田や日産のほうが、より具体的な数字を出せたなら、消費行動は本田、日産に間違いなく流れるのである。京都議定書の数値目標は、最終的には企業に割りふられるのである。その達成度と貢献度がエコロジーとしてのイメージ広告のバックグランドになるはずなのである。
東芝の広告での王子さまは、「ほんとうにたいせつなことには、手間もかかるし、時間もかかる。でもやらなくちゃいけないんだよ。」とつぶやくのである。まさしく、エネルギーの安定供給と地球温暖化防止の両立こそ、エコロジーの基礎になるのである。夏休み終了時に連作として打ち出した東芝の戦略は、見事というしかないのである。それを地球内企業と規定し、それが東芝の責任だと、つよく、大衆に訴えたのである。
40.9度を観測してから、大衆の心理の中に、地球温暖化の恐怖がしみこんだのである。エコロジーを推進させなければならないという思いが、無意識にでも根付いたのである。そこに、「この星のエネルギーとエコロジーのために」というメッセージを出したのである。この電磁波的なメッセージは、シャープの内部を深く激震させるはずなのである。この東芝の方向性は、正しい以上、シャープは意地でもこれ以上のメッセージを出さざるをえなくなったのである。なぜなら、プラズマ・EL・液晶薄型テレビ、パソコン、携帯電話、ドキュメントに対しての地上デジタル放送に向けての家電メーカーの熾烈な勝ち残り競争が始まるからである。このエコロジー広告は、明らかに競争のプロローグなのである。
東芝、シャープが、エコロジー路線を打ち出した以上、各社の追随が始まるのである。エコロジーをいわない、または、何か具体的な数字目標や社会活動を行っていない企業は、取り残されるはずなのである。これは、ひとつの文化の転換期になるはずなのである。エコロジーを標榜する会社は、8月24日にフジテレビで放映したミヨリの森のような、童話的、聖観音菩薩的なイメージのある番組を支援するはずなのである。スポンサーとして協力することが、企業のイメージアップにつながるはずだからである。戦闘的、破壊的なイメージよりも、童話的、旅情的な方向へイメージ戦略が変わるはずなのである。日本家屋の縁側の陽だまりで座布団の上で眠る子犬や子猫のイメージのほうがエコロジーと合うはずなのである。緑あかるい森林の中に光がさす。その中を川がゆっくりとながれ、そこに、いわなが静かに泳ぐ映像の方が、エコロジーと合うのである。まさしく、宮崎駿監督のとなりのトトロやフジテレビ放映のミヨリの森のイメージが、エコロジーと符号するのである。宮沢賢治の世界が、エコロジーに重なるのである。地球温暖化を阻止するには、ひとりひとりのエゴを少なくしていかなければならないのである。社会は、暴力や破壊よりは、協調や柔和を好むはずなのである。フジテレビが力を入れて放映したミヨリの森の中に、忘れていた日本人の魂がやはりあるのである。その中の一本桜の精(聖観音菩薩像の仏の姿)の中に、受け継がれてきた命のともし火が隠されているのである。
東芝が強くエコロジーを打ち出したのである。たぶん、大衆は、目に見える具体的な数値としてのエコロジーの貢献度を企業に要求していくことになるのである。それにより、その商品や製品の差別化が行われるはずなのである。トヨタも単に、みどりの植林に取り組んでいます程度では、大衆は納得しないはずなのである。2兆円の利益がある会社がこの程度しか、できないのかというイメージを持つはずなのである。本田や日産のほうが、より具体的な数字を出せたなら、消費行動は本田、日産に間違いなく流れるのである。京都議定書の数値目標は、最終的には企業に割りふられるのである。その達成度と貢献度がエコロジーとしてのイメージ広告のバックグランドになるはずなのである。
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この記事へのコメント
1. Posted by ねこです。
2007年09月03日 21:14
すごく参考になりました。もっと、深く、お話を聞ければとも思いました。
2. Posted by 中野満
2007年09月04日 10:46
ありがとうございます。会社(美粒)の方に連絡してもらえれば、個人的に対応は可能ですよ。色々と異なる人の考えや見方をしると、柔軟な発想ができますよ。
3. Posted by ねこです。
2007年09月05日 17:21
ありがとうございます。
これからの環境広告の行く末などを、
お聞かせ頂ければ幸いです。
単なるイメージではなく、
環境優位性を競う広告活動に
変わっていくような気もしています。
自動車業界や家電とか
どんな広告が出てくるんでしょうね。
これからの環境広告の行く末などを、
お聞かせ頂ければ幸いです。
単なるイメージではなく、
環境優位性を競う広告活動に
変わっていくような気もしています。
自動車業界や家電とか
どんな広告が出てくるんでしょうね。
4. Posted by 中野満
2007年09月06日 22:26
環境広告こそ、広告代理店のプロしか作れないものになるはずです。企業は営利団体です。環境は利他の精神なのです。どこかで矛盾します。そこの整合性を間違えると、おかしなことになります。もちろん、企業に温暖化をとめる強い意志がなければ、嘘になります。今は嘘はばれますし、ろくでもないものを市場にだすと某会社の電池のように180億円の損害がでます。構成力、文章力、企画力、バランス、デザイン、視点、すべてが、あわないと失敗します。書きすぎもおかしくなります。きっと、短歌や俳句の世界のように、エッセンスの凝縮が必要なのでしょう。それと、もっとも大切なのは、作り手の魂(心)を入れられるかどうかなのです。それが共鳴・共感の基本になります。

